ついに僕は日本に帰国した。2年間の外国での生活が終わってしまったのだ。時が経つのは早く、タイとネパールで過ごした2年間はあっという間だった。ネパールではものすごく不便な生活をしていたが、それでも最高に楽しかった。しかし、ネパールでの最後の1ヶ月は、いくつかの日本の大学団体のスタディツアーをお手伝いするために山岳地帯の村に滞在する時間が多くかなり忙しかった。僕が滞在していた村は、衛生面で言えば「最悪」に近いような場所だ。僕はその村の人々と村の雰囲気がとても気に入り、毎月のようにその村を訪れていた。
そんな僕が異変を感じたのは、大学生と一緒にある村に着いた次の日。夜中に何度も嘔吐し、翌日には下痢や激しい頭痛。その時は自分が食中毒にかかっているのだと思っていた。もしそうだとしたら、1週間程治らないかもしれない。でも、その予測は外れたようだ。その翌日にはケロッと元気になってしまったのだ。よく分からなかったが、元気になったので何も気にしていなかった。
しかし、どうやらその時にはすでに、ある悪いばい菌が僕の体内で活躍し始めていたらしい。ただ、僕にはそんなことは知る術もなく毎日熱心に活動に取り組んでいた。
1週間後、僕は大学生の皆さんと一緒にポカラという僕が住んでいた大きな街に行き、数日間観光を楽しんだ。しかし、その時僕は毎日のように頭痛に襲われていた。歩くことが出来ない程激しい頭痛ではなかったが、毎日のように襲ってくる頭痛に僕は悩まされていた。
結局そのまま僕は日本に帰国した。帰国後も止まらない頭痛。そして帰国した2日目には寒気までしてきた。そんな様子を見た将来医者になりたい僕の弟が、突然「熱を計ったほうがよい」と言うので計ってみると、38・6度もありあわてた。さすが医者になりたいだけある。僕はこれまで38・6度の熱なんて出したことはほとんどなかったので驚いたが、でも特に辛くもなかったので、薬屋で薬を買ってその日は寝た。
翌日になっても熱は下がらなかった。というよりも上がっていった。夜には40度まで熱は上がったが、それでも辛くなかったので気にしないで、ただ寝ていた。
次の日、僕は母と小金井にある病院に行った(帰国後数日は自宅で準備ができていなかったため、国分寺駅前のホテルに泊まっていた)。ネパールからの帰国直後ということもあり心配され様々な検査を受けた。しかし、お医者さんは僕の病気の原因が分からいとのことで、薬ももらわず病院を後にした。
その夜、病状が急変した。頭が割れてしまうのではないかと思うくらいの激しい頭痛、そしてめまいにより僕は歩くことも出来なくなった。その様子を見た僕の父が、昼間行った病院に電話をしたら、医者がいないので来られても困るとのこと。そこで救急相談センターというところに電話をして、救急車を呼ぶべきかどうかを聞くと、呼んだほうが良いというので、僕はそのまま救急車で病院に運ばれていった。運ばれた病院は不思議なことに昼間と同じ病院。父が電話したときは医者がいないと言っていたのに・・・。救急車の中での父と救急隊員の話し合いを聞いていたが、救急隊員によれば、昼間行った病院の患者なので他の病院は受け入れてくれないのだそうだ。
同じ病院で再び検査を受けたが昼間と同じく原因が分からず、とりあえず熱が高いので解熱剤をもらってホテルに戻り、翌日三鷹市にある大きな病院で見てもらうことになった。
翌朝、早速その三鷹市にある杏林大学付属病院という大きな病院に行き、いくつかの検査をした結果、「腸チフス」という感染症にかかっている可能性があることがわかった。日本では症例はとても少ないらしく、病院側も対応に困っていた。でも、病名が分かっただけでも大きな収穫だった。そのまま薬をもらい、容態は悪くなったらすぐに受診するようにと言われ、抗生物質をもらいホテルに戻った。
しかしその夜また容態が悪くなった、高熱、頭痛に加え下痢。再び救急車で杏林大学付属病院に運ばれた。2日連続の救急車。こんなことを経験出来る人はそんなにいない。これからの僕の人生でも2日連続で救急車に乗ることはもうないだろう、なんてことを考えているとあっという間に病院に着いてしまった。
結局そのまま入院することになった。治療室で採血やその他の検査を済ませ、医者から僕の状態について説明があった。最後に僕が何日後に退院出来るか聞いてみると、「1週間は見ておいたほうがいいでしょう。」とのこと。2、3日で退院出来るものと思っていたのに、1週間など、驚きのあまり何も言えなかった。
僕が早く退院したかった理由はただひとつ、学校の始業式に間に合わないことが心配だったのだ。ネパールにいるときから夢にまで見た日本の学校。何とか始業式までには間に合わせたかった。カレンダーを見てみると、1週間後にはまだ学校は始まっていない。そのことを確認した僕は一気に安心し、そして入院生活が始まった。僕が入院した部屋は、「HCU(High Care Unit)」という、重症患者が入院する病棟、中でもその病棟の一番端っこの僕の部屋は他の部屋から完全に隔離されていた。しかも僕はその部屋から一歩も出ることは許されない。僕を診察する医師や看護師は、まるで手術でも始めるかのような全身を防備した格好をして部屋に入ってくる。僕の病気は感染症なのでこうしなければならないということを担当の医師に言われた。僕はその時、自分がどれだけ重症なのかを初めて理解した。
次の日は、保健所から2人の調査員が僕の病気の原因などを調べるためにわざわざ病院まで来てくださった。僕の病気は、ほぼ間違いなくネパールで発症しただろう。あのネパールの村の衛生状況のことを考えると驚くことではなかった。やはり、そのような地域に行くと今回のような病気にかかる危険はあるのだ。でも僕が不思議に思うのは、この1年間僕はかなりたくさんの村を訪れ、その度にひどい衛生状況のなかで生活していたのだが、1度も病気になったことなどなかった。それなのになぜ最後の最後にこんなことになってしまったのだろうか。
僕はなぜか自分の頭の中で、チフスにかかった理由は疲れだと決め付けてしまっていた。帰国直前の一ヶ月、様々なプログラムの準備などで1ヶ月以上休まずにずっと動き回っていた。それで僕がチフスに感染したと勝手に決め付けたのだ。
感染症の原因を疲れと決め付けてしまうなどバカではないかと思う人もいるかもしれないが、医学的な知識の足りない僕が病気の原因を疲れと決め付けたのには理由があった。疲れが原因だと思いたかったのだ。もっとはっきり言えば、僕は病気の原因をネパールの村のせいにしたくなかったのだ。僕はネパールの村の人々が大好きで、彼らとの間には数え切れないほどたくさんの素晴らしい思い出がある。もちろん、原因がそのネパールの村だったとしても、僕はあの村を嫌いになることはない。僕が嫌だったのは、そのことで「やっぱりああいう場所は危ないから行かないほうがいいね~」などとネパールのことを何も知らない日本人に言われたくなかったのだ。今回僕がチフスという病気にかかったことにより、日本の人々にネパールと言う国やあの村について勘違いしてほしくなかったのだ。
しかし、ネパールという国はやはり日本のような先進国に比べ、感染症などにかかってしまう可能性が圧倒的に高いのは事実だ。それが今のネパールの現実だ。ネパール人でもチフスやその他の感染症にかかってしまう人はたくさんいる。ただ、ネパールの病院ではチフスなどの感染症患者への対応に慣れているので、薬を飲むだけで数日すれば治ってしまうという認識が一般的だ。しかし、亡くなってしまうというケースがあるのもまた事実。亡くなってしまう方は恐らくほとんどが農村部に住む貧しい村人たちだろう。感染症にかかった村人の多くは医療費や交通費を払うお金がないので、病院に連れて行くことが出来ず、抗生物質が手に入らずにそのまま亡くなってしまうのだとある村で聞いた。彼らにはどうすることも出来ないのだ。この現実を変えることはものすごく難しい。これは国全体が変わらなければ改善されない問題だ。このことを書き始めると今回のテーマとは全く違うものになってしまうので、また別の機会にもっと知識をつけてからこの問題について書きたいと思う。
ここまで読んでいただければ僕の思いは分かっていただけたと思う。
それでは僕の入院生活に話を戻そう。入院して3日が経っても僕の体調は改善されることはなく、40度近い熱に僕の体力は日に日に奪われていった。自分でも次第に弱っていくのがわかったが、医師によれば抗生物質が効くまでにもう一日かかるから我慢するしかないと言われた。
医師のおっしゃる通り、4日目にもなると熱もだいぶ下がり、急に楽になった。これまでの苦しみがウソだったかのように、何の症状もなくなり食欲も回復した。それからは毎日ベットの上でボーっとしたり、窓の桜を眺めたりして時間を過ごしていた。看護師さんや、お掃除に来てくれるスタッフの方々は皆「1週間の入院はやることもないし辛いよね~」と言っていた。しかし、僕にとって入院生活はとても快適だった。多くの日本人にとって病院でただ寝てるだけというのは辛いのかもしれないが、僕にとっては全く苦痛ではなく、ネパールで夜停電だったときのようにボーっとしていれば、時間はあっという間に過ぎていった。本当にあっという間なのだ。起きて朝食を食べて、ボーっとして、昼食を食べまたボーっとする。そして夕食を食べて寝る。毎日これの繰り返しで、1週間なんてすぐだった。
しかし、1週間経っても退院出来る気配がなく、担当のお医者さんにいつ退院出来るのか聞いてみると、あと3日だそうだ。この3日間が長かった。それまでのように時間はあっという間には過ぎ去ってくれなかった。早く退院して学校に行きたい。僕の頭の中はそのことしかなかった。その思いが強くなればなるほど時間が長く感じた。でも、退院すればすぐに学校に行ける。そう考えると少しは気持ちが和らいだ。
そんな僕に最悪の事態が起きてしまった。退院9日目、まだやる必要のない退院の準備をしていると、僕が一番仲良くしていた看護師のYさんが僕の部屋に入ってこう言った。
「よしき君、K先生が(担当医)退院したら20日に外来で来てほしいって。そこで血液検査して、何も問題がなかったら学校行ってもいいって!よかったね!」
「は?」
僕は自分の耳を疑った。Yさんは本当にうれしそうに言っていたが僕にとっては、まさに地獄に落ちたような気分になった。それは20日まで学校に行っては行けないということなのだろうか。いや、そんなはずはない。それに始業式は8日だ。僕はもう一度Yさんに確認したが、間違いではなかった。僕は、20日の検査で異常がなければ学校に行くことが出来るが、それまでは学校内には入れない。幸い、外出はしていいということだったが、学校にいけないというのは今の僕にとってものすごく辛いことだ。このことを聞いた直後はさすがに気分がブルーになってしまった。でもこれ以上考えても仕方がないこと。感染症にかかってしまった以上、他の人に移してしまう可能性だってあるのだ。そう考えると医師の判断は適切なのだと納得出来た。
そしてついに退院の日を迎えた。たくさんの看護師に祝福されながら僕は病院を後にした。10日ぶりの外の世界。とはいっても、僕は日本に帰ってからベットで寝ていたばかりでまだ何も日本を見ても感じてもいなかった。病院から帰宅し2年ぶりの我が家での生活が始まった。その時初めて、自分が日本に戻ってきたということを実感した。僕の家は2年前と何も変わってはいなかった。どこか別の世界から現実に連れ戻されたような感じがしたが、それは気持ちがよかった。やはり我が家は我が家。とても居心地がよくて、とても懐かしい感じになった。
しかし、それと同時にネパールを恋しく思う自分もいた。日本とネパールはあまりに違いすぎた。特に人が違う。いつでも明るく、誰とでも笑いながら大声で話をしているネパール人がどれだけ素晴らしかったかを、日本に戻ってみて改めてよく分かった。日本は、電車の中でもバスのなかでも駅でもどこでもそうだが、人々がとても暗いのだ。日本人の目からはネパール人の目にあった輝きが見えなかった。人々はお互いを避け、出来るだけ何もないように黙って自分だけの世界へと入っていく。まるで新しい出会いを拒否しているようだった。みんながみんなそのような感じだから電車やバスは静かだった。ネパールのあの人々の活気はこの国の人々にはもうなくなってしまったのだろうか。
日本に帰って、この国の人々を見て思ったのは、ネパールと日本では1人の人間の大きさが違うということだ。僕が言いたいのは身長や体重のことではない。1人の人間の「価値」だ。人間に対して、価値などという言葉は使うべきではないが、僕の感じたことに一番近い言葉が価値なので、この言葉を使わせてもらう。これは全て僕が勝手に感じたことで、誰かを否定しようという気は全くない。
日本では、1人の人間というのはものすごく小さく、お互いに全くといって良い程興味を示さない。そのため、1人の人間の価値が日本ではものすごく小さいのだ。ではネパールではどうなのかというと、知らない人でも誰でもすぐに受け入れて友達にしてしまう。お互いを認め合い、そして自分を主張するのが僕がネパールで見てきた人々だ。例え会ったことのない他人でも彼ら一人ひとりの価値は僕にとってはものすごく大きかった。
これが僕が退院後数日間日本で過ごした感じた正直な感想だ。
自分で読み返してみて、分かりにくい文章であることはよく分かっているが、僕の伝えたいことをご理解いただけたのならばとてもうれしい。
僕は、チフスに感染してしまったことを全く苦に思っていない。チフスになったことで、色々なことを考えさせられた。特に、ネパールの村についてだ。今回僕がチフスに感染したのは、ネパールの村で不衛生な環境に身を置いていたからだろう。でも、僕にとってそんなことはあまりにチッポケな問題だった。僕はネパールが好きで、そしてその思いはこれからも変わらないだろう。今僕は日本に帰国し、ネパールで過ごした1年で学んだ多くの大切なことを忘れずに生きていきたい。そして、僕の母国日本で幸せを探し、これから最高に楽しい人生を送っていきたいと思う。
そうだねぇって、思った。
返信削除病気になると、誤解されちゃう。
誤解っていうか、
「よくそんな国に行ったねぇ」って。
ネパールに、そういうレッテルを貼られちゃうのは、私も嫌です。
ネパールには、ネパールのいいところがある。
日本にも、日本のいいところがある。
退院おめでとう。
るぅ