二月下旬、日本から五人の大学生がネパールにやってきた。彼らがネパールまでやってきたのは、AAEEのスタディーツアーに参加するためだ。
AAEEとは、Asia Association of Education And Exchangeの略。これは僕の父が創設した、アジアの教育や学生交流について研究を行うグループである。
このAAEEが行ったスタディーツアーに僕は日本語とネパール語の通訳として同行した。今回のブログではそこで得た素晴らしい経験について記したいと思う。
今回のスタディーツアーでの僕の正式な任務は通訳であるが、実際には出来ることなら何でもするように言われていた。例えば、日本の学生が現地のネパール人に何か伝えることがあるときに、僕が日本語からネパール語に訳して伝える、これは通訳としての正式な仕事であるが、他にも荷物運び、買出し、送迎、食事の手配など、とにかく出来ることは何でもやるのだ。
今回のスタディーツアーの大きな特徴は、日本の大学生五名ととネパールの大学生五名が一週間共に過ごし、英語のみで交流しながら友好を深め、お互いの生活習慣や文化を理解するということにある。とにかく最初から最後まで日本人やネパール人同士で固まることは出来ない仕組みになっている。さらにプログラムをサポートするためにAAEEのスタッフ(僕のその一人)を始め数多くのネパール人が協力してくださり、非常に内容の濃い交流イベント。普段の生活で英語や外国人に接していない日本人には少し荷が重過ぎると、正直思ったほどだ。
日本とネパールという庶民レベルでは相互理解のほとんどない国の大学生同士が一週間という期間、ずっと共に生活をするというプログラムはとても珍しいと思う(少なくとも僕は聞いたことがない)。さらに一緒にネパール山岳部の村にも行き、村人の生活を一緒に体験する。今回参加してもらったネパールの大学生たちは皆、外国の大学生と一緒に生活体験をするのは初めてのことらしく、プログラムを楽しみにしており、準備段階から興奮気味であった。
このスタディーツアーではプログラム開始前から参加者全員がネット上で交流しながらあることに取り組んだ。具体的には、ネパールの参加学生と作詞し、日本の参加学生が共同でプログラムの主題歌を作詞、作曲し歌う練習をするのだ。音楽や英語の得意な学生たちとAAEEのメンバーが一緒に作った歌を、ネパールと日本それぞれ参加者で集まって練習してから録音し、ネット上で互いの歌を聞かせあった。しかし、これは決して容易なことではなかった。僕はネパールにいたのでネパールの参加者たちの歌の練習をずっと見てきたが、何度練習してもなかなか上手く歌えるようにならないのだ。僕は皆が練習する様子をしばらく観察する内に、その原因がネパールの学校の教育にあるような気がしてきた。つまり、ネパールの学校では音楽の授業はないし、音楽関係の習い事に通う人もほとんどいない。だから、ネパール人は歌を聞いてもそれと同じように』歌うことが難しいのではないかと考えた。いつまでたっても音程がばらばらなままであったが、それでも何日も練習を重ねるうちに、少しずつ上手くなっていき日本の大学生がネパールに着いたころにようやく合唱といえるくらいまでに上達した(ちなみに日本の合唱は、歌ができて数日後にはほぼ完璧だった)。
こんな風にあれこれと準備をしている内にあっという間に日本の大学生たちがネパールに到着する日を迎えた。僕は送迎役として、前日に一人で首都のカトマンズまでバスで七時間かけて移動し、当日は朝から出迎えの準備や翌朝のバスの予約などでバタバタと過ごした。
日本の五人のメンバーが空港に到着したのは午後の一一時過ぎ。中国経由の長旅にも関わらず皆さん満面の笑顔で空港から出てきた。ちなみにその内の二名は昨年度のスタディツアーでも一緒に活動させていただいたので、とても嬉しい再会であった。
この日はそのまま深夜に予約していたゲストハウスに到着し、翌朝からの長旅に備えすぐに眠った。
次朝は朝七時のバスで僕の住む町、同時に今回参加するネパールの大学生の活動拠点ともなるポカラへと向かった。所要時間七時間、日本からの長旅での疲れもあったのだろう。また、睡眠薬並みに強力なネパール産酔い止めを飲んだせいもあっただろう。皆さんほとんど起きずに眠り続けた。
予定通り七時間後、ポカラに着いたので僕がみんなを起こし、窓の外を見て皆、息を呑んだ。なんとAAEEのスタッフとそして今回参加するネパールの大学生たちが全員、美しいネパールの民族衣装を身にまとい、日本からわざわざ来てくれた大学生を歓迎するための大きな看板を持って待っていれくれたのだ。これにはみんな本当ビックリ。皆さんの寝起きの驚きの表情が今でも目に焼きついている。
出会い |
この後、あらかじめ準備されていた専用車に参加者やAAEEのスタッフ全員で宿泊先へ向かったのだが、その車中で、ネパールの大学生が気さくに日本の大学生に話しかけ、すぐにみんな打ち解けてしまった。ここがネパール人のいいところ。だれとでもすぐに仲良くなれて、初対面でもずっと昔からいる友人のように感じさせてくれる。日本の人たちは寝起きにいきなり英語の集中砲火で大変だったかもしれないが、それでもすごく楽しそうに見えた。
宿泊先で少し休憩した後、夕食を兼ねた歓迎パーティーが行われたのだが、ここで僕たちネパール組から日本の大学生へのサプライズを準備していた。日本人学生を会場にしばらく待たせておいて、ネパール人学生が突然登場してネパールの伝統的なダンスを疲労するというものだ。実は僕たちはこのたった五分のダンスのために長い時間をかけて練習してきた。ネパールのダンスはどれも難しいのだ。
ついに本番。会場にいきなりネパールの音楽が流れはじめ、何も知らない日本の大学生たちは「何のことか?」と首をかしげている。そこにいきなり僕らが登場し踊り始めたものだから日本の人たちの驚きも半端ではなかった。狭い部屋の中で、踊るネパール人組とそれを驚きと感動の眼差しで見つめる日本人組。途中からは大きな手拍子が加わった。大成功!最高の雰囲気でプログラムの初日を終えることができ僕はホッとした。前夜から僕一人で日本の皆さんのお世話をする時間が多かったが、これからはAAEEのスタッフの皆さんが一緒に活動してくださる。そう考えると安心し、僕自身のホームスティ先に戻った途端に一気に体から力が抜けた。
歓迎会 |
次の日からも忙しいスケジュールが詰まっていた。二日目は、まずポカラ市最大の私立高校を訪問し、日本人組が日本の学校文化や学校生活を紹介し日本の踊りを披露した。
皆さん日本でしっかり準備して来ていて、英語での説明もわかりやすく、学校の先生方や生徒たちは大喜びだった。午後からは、その後スタディーツアーで何度も披露することとなったネパールの伝統的な踊りをネパールの大学生が日本の大学生に教え、逆に日本の大学生は午前中に高校生に披露した日本の踊りをネパールの大学生に教えた。なぜか僕も踊ることになり一緒に練習したのだが、どちらの踊りも覚えるのがとても大変だった。特にネパールのダンスは非常に複雑で、半日以上かけてもすべて覚えることはできなかった。この日は学校訪問と踊り練習で皆疲れて果ててしまったようだが、その一方で、皆が一日中行動を共にし、さらに互いの国の踊りを教えあったことで打ち解けたよい雰囲気となり、とても楽しくにぎやかに一日を終えることができた。
高校での発表 |
そしてついに三日目。この日から二日間、ヒマラヤの山岳地帯にあるラムジュンという小さな村に行き、そこに二泊三日の交流会を行う。この村に行くというのがこのスタディーツアーの目玉だ。村の選定については事前に随分と議論した。AAEEスタッフがよく知っている村に行ければよい体験ができることは間違いがないが、その場所に行くには時間的に少し無理がある。だから、もう少し近い場所で、AAEEを支援してくださっているネパールの皆さんの推薦してくれる村にとも思うが、AAEEのスタッフはその村を知らない。何日も議論した結果選んだのがこの村だった。AAEEとしては初めてお世話になる村であるが、ポカラで信頼している方が直接やり取りをして話をまとめてくださった。
この村は、まず車でポカラから四時間登り、そこから徒歩で一時間登ったところにあると聞いていた。僕がこれまでに訪れた村に比べると到達するのが随分と簡単な村だ。以前のブログでも書いたが、僕がお世話になってきた村々に到達するためには、この数倍の時間と体力を要する。「超初心者向けのトレッキング」というのが、行き方を聞いたときの僕の印象だった。しかし、車での移動時間は情報通りであったが、徒歩での登りは、一時間では絶対に不可能なルートだった。日本の人たちは時計に頼った生活に慣れているので、登っている最中もしきりに時間を確認しながら「40分歩いたから後20分で着く」という風に考える。しかし一時間たっても全く村に着く気配がなく、迎えに来てくれていた村人に聞くと、この歩き方ではもう一時間も二時間もかかるという返事。平らな道ならいいのだが、そこはずいぶん険しい山道。皆唖然としていた。皆相当に疲れていた。このとき僕は、正直「またやられた」と思った。ネパールでは時間に関することは信頼できないことが多々ある。伝えられた時間通りに物事が動くことの方が少ないくらいだ。約束通りの時間に人が来ることなど珍しいことだし、一日で出来上がると言われた仕事が数ヶ月かかってしまうこともあるのだ。だから、一時間と言ってもそれはかなりアバウトな時間なのだ。また、ネパール人の登る速度と日本人の登る速度は相当に違う。彼らが言う一時間はあくまでも彼らにとっての一時間であり、速度が遅かったり休憩をしたりすれば時間がどんどん長くなる。
辛い山登り |
僕はネパール辺境の村々に過ごす機会が多かったので、村人たちの体力というのはものすごいものだということを知っている。村に暮らす僕のある友人は、毎日50キロの荷物を担いで四時間程の山道を往復している。ちなみに僕が軽い荷物でその道を歩いたときは七時間もかかってしまった。生まれたときから山で暮らしているのだから、僕ら日本人よりも体力があるのは当たり前のことなのかもしれないが、それでもすごすぎる。このように、彼らにとっての一時間はイコール僕たちにとっての一時間ではない、歩き方によっては二時間にでも四時間にでもなるのだ。
ネパールの学生たちと一緒に山を登る中で新しい発見もあった。それはネパールの学生たちが日本の学生よりも体力がなかったことである。日本人の大学生よりもネパール人の大学生のほうが歩く速度がずっと遅くさらに辛そうだった。それは僕にとっては驚きであったが少し考えてその理由がすぐにわかった。今回参加したネパールの大学生は、ネパールの第二の都市ポカラに暮らしている、いわゆる都会者なのだ。彼らの生活レベルは、ネパールのほとんどを占める山岳地帯の村々とは違い、かなり便利であり日本には遥かに及ばないが公共交通機関もあればバイクを持っている人もいる。そのため、彼らは私生活で歩いたり、運動をすることがほとんどないように思う。サッカーチームに所属しているなど、特別な活動をしていない限り、彼らの体力は一般的な日本人と恐らく変わらないのだ。今回ネパールの大学生のなかでは唯一の男性、S君も、すごく強そうな感じだったが実際にはいつも最後尾でゆ~っくりと辛そうに歩いていた(それでもみんなのことを盛り上げようとずっと大声でジョークを言っていたのだから、やっぱりネパール人はすごい)。
そんなことを僕は歩きながらずっと考えていたのだが、結局村に着いたのは、歩き始めて三時間後、皆へとへとだった。何事も時間通りに進まず予測できない自体の連続というのがネパールの生活の特徴だが、今回のケースは最初は軽く考えていただけにみんなにとって精神的にも体力的にもつらかっただろう。
村に到着後、公民館のような場所に入って休もうとしたそのとき!いきなりものすごい大雨が降りだした、と思ったら今度はあられだ。ものすごい大嵐。もし到着が二0分遅れていたら僕たちも巻き込まれていた。心から幸運に思い、もしかしたら神様が見ていたのかもしれないとも感じた。いずれにしても嵐がやむまではどうすることも出来ないので、寒さに耐えながらもその公民館でゆっくりと休んだり、みんなで歌を歌ったり太鼓を叩いたりして遊んだ。
村に到着 |
その村での宿泊方法はホームステイだ。ネパール人と日本人が一緒になるよう上手く三人ずつに分かれて村人の家に泊めさせてもらう。午後八時頃、やっと雨がやんだ。真っ暗な村を懐中電灯頼りにそれぞれのホームステイ先に向かう。一人でホームステイをするとなると不安だが、今回は英語でコミュニケーションがとれるネパールの大学生も一緒なので、みんな不安な様子はなさそうだ。僕は、今回カメラマンとして一緒に来たAAEEのネパール人のメンバーのD君と父と一緒のご家庭に泊まった。D君ははまだ一八歳くらいだと思うがとても頭が良く、そして何よりも素晴らしい性格の持ち主だった。誰にでも優しく、いつもみんなを喜ばせようとしていた。僕は彼と知り合ったばかりだったが、すぐにネパールで一番仲の良い友人になった。
ホームステイ先の家に到着し部屋に案内され、僕らは驚きを隠すことが出来なかった。僕らが泊めさてもらう部屋はまるでホテルのようにきれいでテレビまである。トイレとは別にシャワールームまであった。僕が今まで行ってきた村とはあまりに違い豪華すぎる。
少しして食事に呼ばれた。この食事にも驚いた。肉を存分に使った料理がいくつも出てきたのだ。ネパールの村で肉を食べるということはとても特別なことで、普通は一年に数回の祝い事のときのみ。
「これはおかしい」と僕も父もD君も思っていた。そこで、食事をしているときに泊めさせてもらった家の家族になぜこんなに豪華なのか話を聞くことにした。これほど山奥の村がなぜこんなに裕福なのか不可解だ。少なくとも僕のこれまでの経験とはかけ離れている。この村の特産品があるわけでもなさそうだし、農業も周りの村に比べると規模が小さい。それではこの村の人々はどこから収入を得ているのか。
そのことをホストファミリーに聞くと、びっくりする返事が戻ってきた。「この村には、多くの都会に住んでいるネパール人の観光客が村での生活を体験するために来るんだ。そして君たちのようにホームステイをして、僕たちは彼らから宿泊料をもらうわけだよ。多いときには一ヶ月に数百人も来るんだ。」
とても衝撃的だった。一ヶ月に数百人も客が来る村。観光地化している。さらに何よりもホームステイ先の宿泊料がものすごい額だということも知った。ネパールの普通の村の人が一ヶ月以上働いて得るお金を、この村の人々は数日で稼いでしまうのだ。さらに話を聞いていくと、様々な驚く事実が浮かび上がってきた。僕が一番驚いたことは、宿泊料にはネパール人料金と外国人料金があるということ。外国人の観光客にはネパール人よりも高い二倍以上の宿泊料金がかかるというのだ。実は外国人にから特別に高いお金を徴収するこのやり方がネパールではたくさんあるのだが、こんな山奥の村でもその仕組みがあることは以外であった。と同時に、僕は今まで村の人々にお金のことなど考えずに受け入れてもらっていたので、それに比べると自分自身がお金として見られているようであまりいい気分はしなかった。
今回のこの村はこのような「ホームスティビジネス」で成功している。しかし、どの村でもこのようなビジネスが出来るわけではない。ではどうしてこの村が成功したのか。その理由は次の日の朝に分かった。翌朝、家を出てみると、前日には悪天候で見えなかったヒマラヤ山脈が僕の目一面に広がった。僕はポカラに住んでいたので毎日のように美しいヒマラヤ山脈を見ることが出来たが、ポカラからの景色とは比較にならない。ヒマラヤ山脈がポカラに比べてずっと近くなって、グッと大きく見えるのだ。あんなに美しいヒマラヤ山脈を見たのは、アンナプルナベースキャンプにトレッキングに行ったとき以来のことだ。この美しいヒマラヤの景色のおかげでこの村はビジネスに成功したのだ。もし、あの村にあのヒマラヤ山脈の景色がなければ観光客はほとんど来ていないだろう。観光客の多くは村の生活を体験しに来ているのだが、美しい山が見えればこそなのだ。
ここまで読むとこの村が金儲けをしているということで印象が悪くかもしれないが、村の皆さんはとても素晴らしい人たちばかりだった。とても純粋で、僕達のことを快く受け入れてくれる。ただし、正直に言えば、この村は外国人向けの観光地としては発展しないと感じた。なぜならば、僕を含め外国人でネパールを訪れる人はこのような発展した村を訪れることを望んでいないと思うからだ。外国人の観光客で村に行きたい人というのは、ネパールの大部分を占める農村地帯に暮らす村人の生活の実態を見たいのだと思う。外国人観光客は貧しいながらも自然と共存しながら純粋に生きている姿に魅力を感じるのだ。しかし、今回僕が行った村はそのような実際のネパール村の生活とは大きく異なるものがある。この村は完璧にビジネスとして観光客向けに村の雰囲気を改造している。この村にとっては、我々はお金をもらってその代わりに快適な生活とヒマラヤの景色を提供する「お客様」なのだ。ただ、外国人向けのビジネスとして、この村はインパクトが足りない。なぜならばいくら清潔、快適を目指しても先進国の人々が満足するほどの環境を準備することはできないからだ。例えば部屋を綺麗にしてもそこにゴキブリやねずみが大発生すれば居れば、それだけで終わり。きれいなヒマラヤが見える村は他にも無数に存在する。
しかし、ネパール人向けの観光地としては良い場所だと思う。なぜならば、首都カトマンズや、ポカラなどの都会に暮らすネパール人の若者の多くは一度も村の生活を体験したことがなく、その結果自国の社会格差や貧困の実態について実感することがうまくできていない。実際に、今回のスタディーツアーに参加したネパールの大学生の何人かは今回が初めての村生活だった。ネパールの村には良いところもがたくさん詰まっていて、問題点も分かりやすく見ることができる。都会に暮らす豊かな若者が自分の国の実態をよく知るいい体験にもなるだろうし、村での生活から学ぶことも多くあるはずだ。しかし、実際には都会部の若者は、貧しく、不衛生な生活を毛嫌いするようになっており、村を訪れようとはしない。そんな彼らのためには、今回僕が行った村は最適だ。村人の家にホームステイすることで、村人と深く関わることが出来て、そしてヒマラヤ山脈もとても美しい。衛生的な部屋に暖かいベット。ネパールの現実を見るという面では適した村とは言えないが、都会に暮らすネパールの若者が村の生活を体験するには最高の村である。
この景色はすごい |
また、この国の観光業の発展という意味でも、この村は他の村のモデルになり得る。ネパールのほとんどの村はとても貧しく、生活レベルもかなり低い。現金収入がほとんどない村がものすごく多いのが今の現状だ。その状況を改善しようと、農業や、特産品の生産を行い、現金収入を得ようとする村が増えてきた。でも、そのビジネスが成功しない村がほとんどだろう。彼らの得られるお金は、何とか食べ物を手に入れられるくらいで、以前とあまり変わらない。そんな村をいくつも僕は見てきた。もちろんどの村でも出来ることではないが、今回僕が行った村のようなビジネスを始めることで、いくつかの貧しい村を裕福な村へと変えられるかもしれない。実際、ネパールの村の観光化を専門に活動している外国人の方もいるらしい。僕は、このことについて大きなことを言えないが、ネパールの多くの村が今の現状を脱出するためには、この村のように何かを始めなければならないということは間違いないだろう。
村での二日目の朝。学生たちはどうしていたのかというと、それぞれのホームステイ先でとても楽しんでいるようだった。あるグループは村を散歩したり、他のグループはヒマラヤ山脈を見ながらリラックスしたり、それぞれ充実した時間を過ごしていた。
その日の午後からは、みんなで学校を訪問することになっていた。その村の学校はとても大きく、十二年生(高校二年)までの多くの生徒が通っていた。僕らが学校に入っていくと、たくさんの生徒が教室から出てきて珍しそうな目で僕らのことを見ていた。この日の学校訪問の目的は二つあった。ひとつは、僕達の練習してきた日本の踊りとネパールの踊りをこの学校で披露するということ。そしてもうひとつは、前に述べたAAEEの主題歌の撮影だ。その際、この学校の子供たちにも一緒に歌ってもらうため、いくつかのクラスの授業でこの歌を教える活動を行った。
僕たちの発表を見つめる学校の生徒たち |
村のネパールの子どもに英語の歌を教える・・・。すごく難しい作業に思えたが、やってもると思っていたよりもずっと簡単に出来た。僕と同じ年くらいの生徒に歌を教えたのだが、みんな恥ずかしがらずにすぐに大声で歌ってくれ、そして授業の終わりにはなんと歌を暗記してくれていた。次にそして、踊りの披露。これもたくさん練習してきただけあって大成功。踊り終わるとものすごい拍手に学校は包まれた。
そのまま、AAEE主題歌の撮影場所の広場へ生徒とともに移動。
撮影は、バックにヒマラヤ山脈という完璧なロケーションだ。出演するのは、今回このスタディーツアーに出演した日本とネパールの大学生一一人と、学校の子供たち。このみんなでAAEEの主題歌を歌いそれをビデオに撮影するのだ。学校の子供たちは出来るだけたくさん集めたので、恐らく100人くらいはいたのではないだろうか。この子供たちは一緒に歌うはずであったが、歌い始めたら緊張して固まってしまい、結局立って居るだけという形になってしまった。そして、撮影が始まって数分したころに問題が発生した。つまらなくなって帰ろうとする子供たちや、殴り合いのけんかを始める子供たちが続出してまったのだ。撮影時間が長くなればなるほど騒がしくなっていった。僕は、撮影が失敗しないようにその子供たちを静かにさせることに必死だった。結局撮影は何とか上手くいった。というよりも、とても素晴らしいものになり、今では三万人以上がこの動画を見てくれた。(見たい方はこのサイトに行って探してください→https://www.facebook.com/AsiaAssociationOfEducationExchange?ref=hl)さらに夜には村の人々とのダンスパーティーを楽しみ、翌朝、我々はポカラに戻った。二泊三日という短い期間ではあったが、この村での滞在はとても充実したものだった。AAEEのツアーであの村に行くことはもうないかもしれないが、僕にとってのネパールで最高の思い出のひとつとなった。
民族衣装をまとう女性の参加者 |
ポカラに帰ってからは大忙しだった。ラジオ出演、大学訪問、そして記者会見がポカラに帰った次の日に控えていた。まるでスターにでもなったかのような気分だが、実際僕達のようにネパール人の学生と共に活動する企画は珍しかったので、多くの人が興味を持ってくれたのだと思う。
僕が一番楽しかったのはラジオの出演だ。出演時間はなんと一時間。ネパールでも一時間の番組を独占するのはすごいことなのだという。もちろんこれが僕にとって初めてのラジオ出演。緊張するかと思ったが、全く緊張することもなく無事に収録を終えることが出来た。多くなことを英語聞かれたが、日本とネパールの教育の違いを聞かれたときはさすがに困ってしまった。でもとにかく楽しくて、将来はラジオのパーソナリティーになりたいと思ったくらいだ。
次は大学訪問。僕はここでは特に何もしなかったが、日本の大学生による日本の紹介が素晴らしいものだった。この後、日本の踊りや歌を披露すると集まってくれた大勢のネパールの大学生は大盛り上がり。見てるだけもとても気持ちの良い時間だったことを今でも覚えてる。
そして最後には記者会見。これは、僕の家族の住んでいた家の大きなテラスで行われることになった。何人の記者が来てくれるかは分からなかったのでみんな不安だったのだが、思っていた以上にたくさんの記者が来てくれた。この記者会見では父が中心となって、記者の質問に答えていったのだが、何も問題なく終わったようだ。数日後の新聞にはAAEEや僕達の活動について、ネパールで一番有名なジャーナリストによる記事が大きく掲載された。
すべてのプログラムが成功し、みんな胸をなでおろした。しかし、それと同時に別れの時も近づいてきた。この翌日、日本の大学生は日本に帰るためにカトマンズに移動しなければならない。ネパールのメンバーはポカラでお別れだ。
そのため、この日の夕食はレストランでお別れ会をすることになった。みんなで楽しくおしゃべりをしながらごはんを食べ、時間はあっという間に過ぎていった。そして、最後にひとりずつお別れの言葉を言うときになり、ひとり、またひとりと涙をこぼしていった。途中から皆が号泣しはじめ、それはお別れの間際まで続いた。やはり一番辛いのは別れだ。僕はそのことをネパールで過ごした一年でよく理解した。ネパールで仲良くなった外国人は観光で訪れているのですぐにネパールを去ってしまう。そのたびに別れの辛さを実感してきた。今回は一週間という短い期間だったが、みんなとは数え切れないくらい笑い、数え切れないくらいたくさんのことについて話し、数え切れないくらいたくさんのことを学んだ。何よりも、本当に楽しくて、心から幸せだと感じた。だから別れは本当に辛い。日本の人には帰国後に会えるし、ネパールの人たちとは翌日からも会える。それはわかっていても、この集団が終わることが僕には辛く、できれば時間が止まってほしいと思ったくらいだ。
一週間前に初めて出会ったばかりなのに、一週間後には涙を流して別れを惜しんだ。本当の友情というのは、簡単に出来るものではない。でも、いくら一緒にいた期間が短くても、友情というのは大きく、強いものになることが出来るのだ。そのことを今回の経験で学んだ。そして、人生においていかに友人が大事であるかということも改めて分かった。
僕は、今まで何度も転校を繰り返し、そして住む国も変わった。その度に、新しい友達を作り、そして別れてきた。でも、どこにいても本当の友人というのはいつも自分のそばにいるような気持ちにさせてくれる。男女関係なく、暮らす場所や国だって関係ない。友達は友達として自分のなかにいつもいる。そして、その友情は壊れかけることはあっても決してなくなるものではないと思う。この世を去ってしまっても、友情だけは残るのだ。
では人生において、友情というものはどれだけ大切なのだろうか。僕にとって友情は何よりも大切なものだ。いくらお金があっても、豪華な暮らしをしていても、友達と一緒にいるときの楽しさや幸せを得ることは出来ないだろう。だから、僕はこれからの人生、友達を大切にしていきたい。断言は出来ないが、本当の友達がいればどんな辛い時だって乗り越えていけるはずだ。辛いときこそ、友達に元気をもらうのだ。そして友達が辛いときには、自分の持っているエネルギーを分けてあげればいい。もしかしたらそれが幸せな人生を送る秘訣なのかもしれない。
僕は何かを考えるときには、人の意見を聞きつつもできるだけ人に自分のなかでその答えを見つけ出そうとするようにしている。この一週間で僕は友情の意味について深く考え、そして自分なりの考えを見つけ出すことが出来た。この考えはこれからの人生でまた変わっていくかもしれない。それでも、僕の今の友情についての考えは、今後の人生で大いに活躍してくれると僕は信じている。
最後に、僕にこのような思い出をくれた素晴らしい友人達に感謝し、そして僕達の友情が永遠であることをここに誓おう。今回のメンバー、そして皆と過ごした一週間はいつも僕の胸に残っている。忘れない。
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