僕がネパールに来てから十回以上は滞在したであろうマイダン村。初めてあの村に行ったときは村の学校で盛大に歓迎パレードが行ってくださったのだが、今では、遊びにいっても「おお、また来たか」という感じで、まるで僕を村人の一人のように普通に接してくれる。
その村に行くためには僕の住んでいるポカラから、ローカルバスで六時間走ったところにあるタンセンという街に行き、そこからジープに乗り換えドリマラ村まで二時間ほど走る。そこから一時間歩いてようやく到着する。一日で辿り着くことは不可能ではないがかなりきつい。だから今までは、タンセンで一泊し翌朝にマイダン村に向かっていた。しかし今回は時間がない。急を要するので一刻も早くマイダン村に到着する必要があった。
今回僕がマイダン村に行ったのは、今までのように遊びに行ったわけではない、「調査」をしに行ったのだ。
僕の父のところにある日本の大学生グループから連絡が来たのは一ヶ月前。ネパールでワークキャンプをするから村を案内してほしいという依頼だった。このグループの皆さんは、今までも毎年ネパールを訪れており、その度にパルパ県の一つの村を支援してきた。今年もネパールに来て支援したいというのだが、今回、どの村で何を支援したらいいか迷っているのだと言う。
父は僕に相談した。その内容は思いがけないものだった。そのグループがネパールに到着する前にどこの村に行くかを決め、支援する内容を村人たちと話し合い、支援するに当たって必要なものを全て手配してほしい。そして、そのグループが到着したら村まで案内し、通訳としてみなさんのサポートをしてほしいということだ。なぜこの仕事を父が僕に頼んだのかというと、僕がネパール語を話すことができ、また、パルパ県のこともよく知っていて村人との交流も慣れており、さらにパルパ県を長年支援しているOKバジの支援活動も見ているからだとのこと。
父にそのことを僕に伝えられたとき、僕は一度は断った。理由はただ一つ。そのグループの皆さんがネパールを訪れるときにはタイに行く予定になっていたからだ。僕は以前一年間タイに住んでいて、大好きな国のひとつである。久しぶりにタイに行けることをものすごく楽しみにしていた。
しかし数日間考えた後、僕はタイに行かずに、この仕事を受け入れるようと決意した。理由は単純で、僕に出来ることがあるならやはりぜひお役に立ちたいと思っただけなのだが、しかしタイには行けなくなってしまう。だから自分の中では大きな決断だった。ただ、この仕事を引き受けると決めた以上、僕は自分にできる限りのことをすると決めた。
最初の仕事は支援する村を決めることだった。これには一週間以上の時間がかかったが、様々な人との議論の末に、村人との関係が良好なマイダン村を支援することが決まった。
そして、それが決まった翌日には僕はマイダン村に向かっていた。日本の皆さんに一日も早く支援内容をお知らせしなければならなかったからだ。朝の七時半にポカラを出発し、午後二時過ぎにはタンセンに到着、父とは、タンセンで乗り合いジープに間に合わなければ一泊すると言う話し合いをしたが、運よく乗り合いジープに間に合った。村に行く道中は30人もの乗客でごった返す乗り合いジープの「屋根席」。怖さを感じないわけではなかったが、僕の頭の中は自分に与えられた任務でいっぱいだった。ジープを降りて山を歩き、夜八時過ぎにはマイダン村に到着した。
父には、すべて決めてから帰って来いと言われたが、同時でできれば二日後には戻って来てほしいとのことだった。日本の学生さんが待っているからだそうだ。どうなるかはわからないが自分ができることと言えば、ベストを尽くすことだけだ。
翌朝、村で一番信頼されている方に事情を伝え、早速会議を行うことを決めた。そしてそのことを村長や学校の先生など村の重要な人々の家をまわって伝えた。「今日十時から大事な会議をするので集まってください!」しかしここはネパール。何事も時間通りには始まらない。みんな十一時ごろに学校に集まり始めたのだが、実はそのことも踏まえて、僕は十時から会議を行うと伝えていたのだ。結局僕の予定通りの十一時に会議が始まった。
ここまではすべて予定通りに進んでいたのだが、この会議にはかなり苦戦した。まず僕は、その大学生のグループがマイダン村を支援したいということを伝えた。村の皆さんは驚いていたが同時にとても喜んでいた。その後、大学生グループの要望を一通り伝えた。大学生グループのみなさんは、村を支援するときに、村の人々の本当に役に立つものを、村人たちと一緒に作りたいということだった。しかし、そのグループの皆さんがこの場所にいないのだから何を支援するかを決めるのは、村人と僕ということになる。
この村には何が必要かを議論し始めたのだが、ここからが大変だった。村の皆さんは、自分たちの村に必要なものをいくつか挙げていったのだが、これは大変申し訳ないのだが僕がすべて却下した。例えば、平らな道路がない山道に、バイクが走れるように道路を作りたいというもの。道路と言っても、今ある険しい山道をショベルなどで掘って平らにするというだけで、アスファルトの道路が出来るわけではない。この提案を却下した理由は、村の皆さんだけでもこの道路を作ることは十分可能だからだ。わざわざ日本の方々に支援してもらってまで作る必要はない。
その他に、「アマサモア」と呼ばれる村の母親グループの事務所建設や、サッカーグラウンドの建設などの要望もでた。
「アマサモアの事務所が出来たら、そこで会議をすることが出来る。今は村の広場でやっているが、雨が降ったらだれかの家で会議をするしかないので、事務所が出来たらとてもうれしい。」
というのが村人の主張だ。しかし、これに対し僕が思ったことは、事務所がを作らなくても、今までどおり広場や人の家で会議することに全く問題はないということ。そのことを伝えると、村の皆さんは笑いながら「言われてみればそうだね!」という感じで納得してくださった。
サッカーグラウンドを却下したのは、今ある小さなバレーボールコートで十分対応だし、サッカーグラウンドを作ったところで村人の生活が楽になることはないという理由からだ。僕の主張に皆さんはすぐに納得してくださった。平地のない山中に国立競技場のような大きなグラウンドを作りたいと言っていたのだが、それはどう考えても無理な話だ。
会議が始まって3時間。なかなかいい案が見つからない村人たちに、僕が一つ提案をした。それは、水のタンクを村に作るというものだ。 マイダン村には公衆水道が整備されていないので、村唯一の水道タンクまで毎朝水を汲みにいかなければならない。しかし、そのタンクの水源のがもうすぐ尽きてしまうのだそうだ。その僕の提案を聞いた村人たちは大賛成し、水道用のタンクを作ることに決まった。
このことが決まったのが午後3時。時間はかかったがようやく決まって一安心。次にそれを作るに当たって、日本に皆さんの条件について村人たちに伝え始めたのだが、これがまた大変だった。日本の皆さんの出した条件の一つに、村人たちと一緒に労働するということがあり、さらに父からは、村のために支援するのだから村の人々は当然無料奉仕しなければならないと言われていた。この主張は間違っていない。日本から高いお金を払ってネパールに来て、さらに支援までしてくれるのだから、この条件は当然と言ってもいい。しかし、村の皆さんは、「労働するのだから給料がほしい」とおっしゃった。
一つ勘違いしないでもらいたいのが、皆さんは決して悪気があってこのようなことを言っているのではない。この村の人々は本当にいい人ばかりなのだが、経験のないことについて話し合うことに慣れていないのだと思う。でも、きちんと説明すれば分かってくれるのだ。だから僕もゆっくりと時間をかけてていねいに皆さんに説明したら、「そうだよ!俺たちが給料をもらわないのは当然だ!日本からわざわざ来てくれるんだ。だからマイダンに来てくれる皆さんには最大限のおもてなしをしよう!」と、みんな一致団結して言ってくださった。
ここまでで午後四時半頃。しかし僕の仕事はまだ終わってはいない。それから水のタンクを作る場所を見に行き、タンクの設計をしなければならない。
最終的に三つのタンクを作ることに決定したのだが、三つのタンクを作ることになった理由は、一つしか作らないと、住む地域によってはタンクがものすごく遠い場所になってしまうからだ。だから、小さなタンクを3つ作り、村人全員が平等に水道を利用できるようにした。
しかし、このタンクを作る場所というのが想像以上に遠い場所だった。一つ目は、村から二十分も山を下った場所にある。今ある水のタンクよりもずっと遠い。他の二つのタンクもこれと同じくらい村から離れたところにある。これで村の人たちにとって本当に役に立つのか聞いてみると、これだけ離れていても水が手に入るのだから村人はとても喜んでいるよ、と皆さんおっしゃっていた。皆さんの本当に役に立つものを支援するという条件だったので、僕は父や父と働くスタッフの方々とも話し合い、「それでいきましょう!」と合意した。
水のタンクの設計自体はさほど時間がかからなかったのだが、一つ目のタンクから二つ目のタンクへの移動もまたかなり時間がかかり、結局その日は2つのタンクの設計だけで終わり。村に帰ってきたきたのは夜七時を過ぎていた。ようやく、長い長い一日が終わった。
翌朝、三つ目のタンクを作る場所を確認した。その場所も村から往復で一時間以上かかる。村人の生活の大変さをつくづく感じた。
その後、材料の見積もりのためにタンセンに戻ることになった。タンセンというのは、マイダン村のあるパルパ県の県庁所在地で、村と違い何でも手に入れることが出来る。ちなみにタンセンでは、タンクを建設するのに当たって必要なものを手配することに加え、カトマンズから到着後に一泊滞在するホテルを決めることも任務として与えられていた。
タンク建設にはセメントや鉄筋などが主であるが、これを買うには僕だけではなく、村の皆さんも一緒に行ってもらう必要があった。実際に作業の中心になるのは村の人々だし、何といっても僕はまだ十六才の子どもだからだ。僕の父よりも年上の方と学校の理科の先生の二人の村の方と一緒にタンセンに向かった。ところが、僕はてっきりジープで行くと思っていたのだが、なんとバイクで行こうと言うのだ。しかも三人乗り。舗装されていない山道を三人乗りで二時間登りつづける。僕の感覚ではどう考えても危険な行為なのだが、お二人が終始笑顔。かなり怖かったが無事にタンセンに辿り着くことが出来た。
タンク建設に必要なものは一つの店ですべて手に入れることが出来た。しかし、ネパールでは値段交渉のときに細心の注意を払わないと、値段を騙されて必要のないお金までもを払ってしまうということがよくある。だから村人とお店のオーナーの会話をずっと注意深く聞き、おかしなところがないかどうかを確認する。合計金額が決まったら全てをもう一度確認し、計算し直す。父と数分ごとに連絡をし、近況報告をする。何度も何度も確認をし、合計金額が決まった。そして、その必要なものを学生さんたちが村に着く前に運んでもらうように車の手配をした。ネパールでは何事も時間通りに進まないので。ものすごく慎重に話を進めなければならない。心配ではあったが、しっかりと村人と連絡を取り合い、学生が到着する二日前までに荷物を運び終えることを約束してもらった。店に入ってからここまでの2時間、ものすごい集中していたせいで、朝なのにかなりの疲れを感じてしまった。
そして最後の仕事が学生さんの宿泊するホテルを決めることだ。出来るだけ安く、さらに安全なホテルという要望に沿うように安くて、しかもさほど汚くない安全なホテルというのを探した。最初に目をつけたホテルはものすごく安かったのだが、とても汚くて、水道も使えないというところだった。安いには安いが、さすがに日本からきたばかりの学生さんたちが泊まるのには適してないと判断し、次の僕が今までに何度も使っていたホテルに向かった。
このホテルが値段が少し高いので、少し安くしてもらえないかどうか頼んだら、とんでもない事実が発覚した。そのホテルは、ネパール人にはとても安い値段で泊めてあげるのに、外国人にはその2倍以上の値段でしか泊めさせないというのだ。外国人=お金持ちというイメージが根についているネパールではよくあることだが、そこに泊まる外国人の多くはパルパを支援にするために来ているのだ(しかも大半が日本人だそうだ)。僕はがっかりしてそのホテルを出た。結局その次に行ったホテルに泊まることに決めた。そこはきれいとは言えないが汚くもなく、水も出る。安全面に関しても、部屋の鍵もしっかりとしており、スタッフもまじめそうで値引きもしてくれたので、父と働くスタッフの方に確認の上で予約することにした。
これで僕の任務は終わった。あとはバスでポカラに帰るだけ。ここまで一緒に来てくれた二人の村の方と食事をしてからバスに乗り込んだ。そして七時間バスに揺られポカラに到着、早速、父と二人のスタッフの方と最終確認してホームステイ先戻った。
今回、与えられた仕事をすべて二泊三日で終えることが出来たことに自分でも驚いている。マイダン村に行く前、周りの人たちには絶対無理だとまで言われていたが、やってみなければ分からないものだ。
今思い返して見ると、結果はよかったが結果までの一つ一つのプロセスは本当に大変だった。特に村人との会議には神経をとがらせた。なかなか状況を理解してくださらない村の人々へ説得には随分と頭を使を使った。しかし、そのおかげで、村の皆さんとの絆をさらに深めることができたことは間違いない。今も皆さんとは頻繁に電話連絡をしているが、「全て順調に進んでいる」そうだ。「ネパールでは何が起こるかわからない」これは外国人だけでなくネパール人の口癖でもある。だから、本当に申し訳ないが村の皆さんの言葉を100%信じる訳にはいかないのだが、僕が日本の学生の皆さんと共に村に行くときにはタンクを作るための最低限の準備が完了していることを願っている。
とても過酷な旅であったが、同時に、これまでになく充実した経験をさせていただいた。
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