「バングラデシュで考えたこと」
関愛生
バングラデシュと聞いて、皆さんは何を想像するだろうか。しばらく考えても「貧しい国」ということ以外には、何も思い浮かばない人がほとんどではないだろうか。少なくとも、僕はバングラデシュを訪れる前まではこの国について何ひとつ知らなかった。一つだけ、北海道ほどの面積に一億人が暮らしているということだけは、インターネットから情報を得ていた。
僕がバングラデシュに行くことになったのは父の提案によるものだ。、元々仕事の関係でバングラデシュを何度か訪れていた父の話を聞いて、以前から行きたいと思っていた国ではあったのだが、まさか本当に行けるとは夢にも思わなかった。
二週間バングラデシュに滞在することが決まったときはとても嬉しかった。今回も一人旅だ。一人旅とは言っても、空港に父と一緒に活動をしている大学生達が待っていてくれて、滞在先も彼らの家だ。父は、「ダッカでは一人で行動するのは無理だ」と言っていたが、その意味を空港から出た瞬間にすぐに理解出来た。あまりの人の多さに圧倒されてしまった。
右も左も分からなくなってしまっていた僕に、「YOSHIKI」という紙を持った若者が声をかけてきてくれた。どうやら彼が父の知人の大学生のようだ。彼の名前はナシム。彼はバングラデシュの最難関の理系大学の修士課程で学んでいる。もう一人、少し離れた場所で待っていてくれた彼はファイサル。彼はバングラデシュの東大とも言われるダッカ大学の修士課程で学んでいる。
彼らと一緒に空港を出たのだが、何だかかなり騒がしい。それと同時に明らかに異様な雰囲気を感じた。パンチャビという白くて膝まで丈のあるイスラム教の衣装を身にまとった男性たちが大声で何かを叫びながら歩いていく。その姿を見た僕はニュースで見たイラクのデモ行進を思い出した。彼らは異常なほど興奮し、パワーに満ち溢れていた。その光景を見た僕までもが思わず興奮してしまった。「すごい国にやってきた!」
「今日はイスラム教徒にとってとても大事な日で、世界中の多くイスラム教徒がバングラデシュにやって来るんだ。だからみんなこんなに興奮しているんだよ。」と、ファイサルがベンガル語なまりの英語で教えてくれた。
この日はナシムの家に泊まったのであるが、そこでいきなり世界観の違いを見せ付けられた。女性に対する考え方の違いである。ナシムは建築途中のマンションに家族と共に暮らしている。父、母、祖母、兄、姉、そしてナシムの六人暮らし。しかし、僕の滞在下数日間で、この家に暮らす女性が僕の前に一度も姿を現さなかったのである。バングラデシュ人の多くの女性は家族以外の男性に自分の肌を見せることは許されず、まして顔を見せるなんてことは絶対にあってはならないことなのだそうだ。外出するときはいつもショールを体中に巻き、周りが見えるように目だけあけておくという格好をしなければならない。家の中ではそんな格好をする必要はないのだが、僕のようにお客さんが来たときには部屋に閉じこもってお客さんの前に出ることは出来ない。僕はこの家にいる間、リビングルームの一部カーテンで囲まれた場所で大半の時間を過ごした。カーテンの向こう側には女性たちが生活している。その女性たちに会うことは結局一度も許されなかった(ちなみに各家庭により考え方に違いがあり女性に会えた家も多くある)。
ある時ちょっとした事件が起きた。ナシムと僕が家に戻るとリビングを挟んで右側にある部屋のコンピューターを使って、そこにナシムのお姉さんが仕事をしていた。僕とナシムはそれを知らずに、リビングのソファーにいつものように座った。しかし、僕がいることにより、そのお姉さんはリビングの左側にある寝室に行けなくなってしまったのだ。お姉さんはナシムを呼び、僕の見えないところで五分以上議論した。そして戻ってきたナシムは何と寝室から大きな毛布を持ってきてそれを僕にかぶせたのだ。僕の体中をその毛布で覆い、隙間がないかどうか念入りにチェックしOKの合図をした後、姉がコンピュータの場所から出てきて寝室にそそくさと戻っていった。結局姉が弟を呼んでから寝室に戻るまで十分以上もかかってしまった。バングラデシュの女性は苦労が多いことを知ったはじめての経験である(僕がいなければ起こらなかった事件だ)。
この事件は女性に苦労の一例に過ぎない。僕の目からは女性にとってこの国で暮らすことはとても大変そうに見えた。例えば、ある電化製品のショッピングモールに行ったではトイレが男性用しかなかった。これにはタイでおかま専用のトイレを見たときと同じくらい驚いた。このようなことを書くと、皆さんは女性蔑視だと思うかもしれない。しかし、イスラム教の世界ではこれは差別とはいえないのかもしれない。例えばトイレの件にしても、イスラム教を厳格にしていけばするほど、女性は外出する必要がなく、その結果トイレも男性用しか作る必要がないという考え方は理解不可能ではない。
しかし、バングラデシュの皆さんの話によれば、以前に比べれば最近は女性が、イスラム教の教えに反することなく様々な権利を得るようになったそうだ。その結果、現在ではまだ比率でいえば90:10くらいで男性が圧倒的に多いが、女性も町で自由に買い物などを楽しめるようになった。さらに、女性も都会では女性もしっかりと教育を受け男性に劣らずに働いているケースも多いと聞いた。
最初の数日間ダッカ市内を周る中で、経済力についてもネパールや昨年住んでいたタイや母国日本、ドイツと何となく比較することができた。ダッカ市内機械や車、建物、インフラなどをできるだけ注意深く観察したが、日本やドイツなどの先進国に比べると見劣りがする。しかし、ネパールと比べてみるとどうだろうか。今回は首都のダッカしか行っていないから国全体を比較することは出来ないが、ネパールの首都カトマンズと比べると、ネパールの発展がいかに遅れているかよく分かった。ダッカでは高層ビルまでとはいかないが、大きな建物が立ち並び、道路もネパールのはげかけたアスファルトの道路よりもずっときれいだった。街の中心部にはショッピングモールが立ち並び、ネパールにはまだ一つもない大きな映画館もある。ダッカの発展レベルは、バンコクとカトマンズの間くらいではないだろうか。今のダッカは、ネパールに比べると急激に経済発展しているように見える。
ただし、これは恐らくダッカなどの都会だけのことなのであろう。ダッカ以外の街はこのように発展しておらず、国のほとんど地域は貧しい村々ばかりだということを何人かの大学生が言っていた。また、ダッカ市内でも僕は数え切れないほどの貧しい人々を見た。乞食の数はネパール以上に多い。もしかしたらこの国も他の多くのアジアの国と同じく、一部のお金持ちだけがいい思いをして、たくさんの貧しい人々が辛い思いをしているのかもしれない。
5歳くらいの女の子が夜の11時頃に泣きながら新聞を売っていたときの光景を今でも忘れられない。あの子はそのときなぜ泣いていたのだろう。お腹が空いていたのだろうか。僕はその女の子に屋台で売っていたパンケーキを買ってあげたかった。しかし、友人に止められた。もし僕がその子に何かを買ってあげると、たくさんの乞食が来て僕が彼らに食べ物を買うまで離してくれないという理由からだ。そんなことは分かっていた。ネパールでもよくあることだ。結局僕はそのまま友人と家に帰ったのだか、そのパンケーキを買ってあげればよかったと後悔している。
その数日後、友人の家の前で、見るからに貧しくやせ細った体をしていた女性が倒れていた。そしてその横には彼女の二人の子供が座っていた。2歳くらいの男の子と1歳くらいの赤ちゃんだった。その日はとても暑く、熱中症になったのだとすぐに分かった。痙攣を起こしていて意識ももうろうとしていた。その女性の周りにはたくさんの人が集まっていた。しかし信じられないことに彼らは、彼女が震えているので寒がっていると勘違いし、太陽の照りつけるアスファルトの上に寝かせていた。僕は医学についての知識はほとんどないが、一目でこれはやばいと思い、現地で覚えた片言のベンガル語とジェスチャーで、熱中症だということ伝え、日陰に寝かせた。
少ししてその女性は回復し、自分で座ることも出来るようになった。すると、周りで見ていた人々が無言のまま、水や食べ物を買って彼女とその子供に与え始めた。この社会の優しさを見た気がした。
また、同時に母親の子に対する愛情の強さも感じた。親切にしてくれる周囲の人々に泣きながらお礼を言うと、その女性は自分自身が大変な状況で辛いというのに、自分のことは構わずに横にいる子供二人に恵んでもらった食べ物を食べさせたので。そして、子どもたちのお腹が満たされたのを確認してはじめて、震える手で、子供達の食べ残ったごはんを口にし始めたのだ。すごいと思った。
貧しい人々が苦しむこのような出来事は毎日のように見かけるということを友人の一人が言っていた。これはバングラデシュに限らずネパールのでも同じだし、世界中の貧困国でも同じなのだと思う。飢餓に苦しむ人の救済は一刻も猶予を許さない。毎日世界中の貧困国で飢餓により人々が死んでいる。今この瞬間も空腹によって生と死をさまよっている人々がたくさんいる。バングラデシュでどれだけ貧しい人がいるのかは分からないが、家も食べ物もない多くの人々が支援を必要としていることは間違いないだろう。
僕がバングラデシュで仲良くなった友人達が作った社会奉仕団体「SWITCH」は、そんなバングラデシュの貧しい人々のために活動している。そのSWITCHというグループは、主要メンバー全員が大学生または、大学を卒業したばかり。それにも関わらず、ものすごい行動力で周囲の人々を驚かせている。彼らの主な活動は、バングラデシュにあるスラム街の子供達のために学校や図書館の建設したり、貧困地域で無料で医者に見てもらえる診療所を開設し、貧しい人々に冬のための暖かい衣服を提供したりなど、とても素晴らしいものばかりだ。その他にも、SWITCH製作のペンを販売して、そこで得たお金をSWITCHの活動費に当て、教育雑誌なども作っている。
僕はそのSWITCHのメンバーとの会議に毎日のように参加させていただいた。会議とは言っても、公園で集まってお茶でも飲みながらお互いの意見を出し合ったりなど、情報交換の場のような感じだが、僕にとってこの会議はすごく充実した時間だった。バングラデシュの現状についてはもちろん、政治的活動をしている若者たちのことや教育についてもたくさん知ることが出来た。
SWITCHの中で最も重要なメンバーの一人が空港に迎えに来てくれたファイサルだ。彼は他のメンバーの誰よりも行動力があり、さらに頭も冴えている。SWITCHの活動の多くは彼のアイデアによるものだ。彼の家には一週間ほど滞在した。彼は大学生だが、携帯電話を販売する仕事もしていて、毎日忙しい日々を送っている。彼はその仕事で得た収入の多くを自分で使わずにSWITCHの活動費に当てている。だから、彼は本当にすごい。圧巻されるという言葉はこういうときに使うのだろう。
僕はバングラデシュでの滞在期間のほとんどは彼らSWITCHのメンバーとともに行動し、たくさんの場所に連れて行ってもらい。様々な人々を紹介してもらった。夜も寝るのも忘れて話し合ったこともあった。僕はネパールに滞在中、学校などで多くの友達に恵まれたが、正直に言うと、本当の友達と呼べる人がほとんど出来なかった。年齢は同じなのだが、なぜか話しが合わないと言うのが理由だ。彼らの価値観と僕の価値観は全く違い、面白いと思える話題が彼らと話していて何もないのだ。しかし、今回バングラデシュで知り合った大学生たちとは驚くほどに意気投合した。年齢的には僕の10歳近く高い人ばかりだが、話題がなくなることはなかった。彼らが親切で僕に話しを合わせてくれていたこともあるかもしれないが、しかし恐らく、彼らと僕の考えていることや価値観が似ていることもその理由の一つだと思う。久しぶりに友情の素晴らしさを実感することができた。
また、SWITCHのメンバーだけでなくバングラデシュで知り合った全ての人がいい人ばかりだった。とてもフレンドリーで、いつも僕に優しくしてくれた。「家族のように」というのがぴったり当てはまる。一度会っただけでも家に泊まっていけだとか、家にごはんを食べに来てくれなどと誘ったりしてくれるのだ。「ベンガル人のWelcome精神はすごい」と父は言っていたが本当にその通りだと思った。
バングラデシュ人とネパール人はとても良く似ていた。顔も似ているし、言葉も似ている。ネパール語を使える僕の感覚としては、バングラデシュ人の母語ベンガル語は数ヶ月暮らせば間違いなく話せるようになる。そのくらい似ていると思った。さらに性格までもが似ている。待ち合わせの時間に1時間以上平気で遅れてくるところなんてネパール人とそっくりだ。とにかくネパール人もバングラデシュ人も気ままに生きている。そんな彼らと話をしているだけで僕の心は軽くなってしまう。彼らはとても純粋で(その純粋すぎる性格が元で大きな問題に発展することもあるが笑)、いつも笑っていて楽しそうに見える。
今回の旅ではとにかくたくさんのバングラデシュ人と知り合い、いつも誰かと一緒にいた。泊まった場所もホテルではなく、現地の人の普通の家で、彼らと同じ生活をしていた。この旅は観光としてではなく、現地の人と同じ生活をするために来た。その方が、バングラデシュ人のことがよく理解できるという、バングラデシュの友人の薦めもあった。おかげで一般的な観光旅行に比べ、バングラデシュ人の私生活など細かいところまで知ることが出来た。
このスタイルの旅を選択したおかげで学べたことがいくつかある。その一つは、イスラム教についてだ。多くの日本人や先進国に暮らす人々はイスラム教について怖いイメージを抱いていることだろう。イラクやアフガニスタン、最近ではアルジェリアなどで起こるテロ行為は、ニュースなどでよく目にする。僕も以前はイスラム教に対して良いイメージを持っていなかった。しかし、今回バングラデシュに行ってみて、イスラム教がいかに素晴らしい宗教であるかが分かった。テロ行為を行う集団はイスラム教徒ではあるが、一般的なイスラム教徒とは全く別だ。先進国では、テロリストがイスラム教の代表のように報道されているが、それは全く事実とは異なり、一般市民は彼らのことを軽蔑している。常に平和を祈り、誰にでも敬意を払うのが本当のイスラム教だと友人の一人は言っていた。彼らは神に祈るときは、最初に世界中の平和を祈り、そのあとに家族や友人の健康など自分の身近なことを祈るのだそうだ。世界中の平和をまず祈るということに驚いた僕は、自分の勝手なイメージでこんな質問をしてしまった。
「でもあなたたちは、キリスト教とか仏教とかヒンズー教は嫌いでしょ?」
それに対する答えがとても印象的だった。
「そんなわけないじゃないか!僕らイスラム教徒は、他の神様もみんな大好きで、とても尊敬しているよ。」
この言葉は、僕のイスラム教へのイメージを一変させた。バングラデシュに行く前にイスラム教について少し調べてきていたので以前までの悪いイメージはなくなっていたが、ここまで他宗教を受け入れ、尊敬しているとは思わなかった。
バングラデシュは敬虔なイスラム教国家として有名であるが、しかし最近は状況がが変わりつつあるそうだ。イスラム教徒は一日に五回神に向かってお祈りをしなければならない。お祈りする時間は決まっていて、そのときは街中にコランと呼ばれるお祈りのための歌が流れ、それと同時に人々は仕事を一端やめ、地面に体を伏せて神に祈りはじめる。というのが、今までのイスラム教徒だった。しかし、僕が知り合った若者たちは、金曜日のお昼だけモスクと呼ばれるイスラム教のお寺に行ってお祈りをしていた。それ以外の日は全くお祈りをしない若者が今は多いのだという。その理由として、面倒くさいこと、忙しいことなどがあるそうだが、それをバングラデシュの高齢者は決して良く思っていないのだそうだ。時代の流れによって昔から続く宗教までもが変わっていってしまうのはどこの国でも同じなのだなと思った。二週間の滞在のおかげでイスラム教について少し知ることが出来が、まだまだ不思議なことだらけ。、今後もイスラム教について学び理解を深めたい。
ちなみに宗教について言えば、今回の旅はある意味で僕にとって節目の旅とも言える。というのも、僕は、半無宗教的ではあるが仏教徒の日本人の父と、あまり宗教色を感じないがキリスト教徒の母を持つ。そして仏教徒の多い日本で生まれ育ち、キリスト教国ドイツに定期的に訪問した。さらに昨年は仏教国タイに暮らし、今年はヒンズー教国ネパールに暮らした。今回のバングラデシュの訪問により、世界の四大宗教すべてに触れることができたのだ。十六歳にしてこの経験ができたことはとても貴重なことであり、これを無駄にしてはいけないと思う。
バングラデシュで分かったもう一つのとても大きなことは、バングラデシュ人というのは、自分の国にかなり誇りを持っているということだ。その背景には、1971年に、元々パキスタンの一部だったバングラデシュが長期にわたる独立戦争の末に自分達の手でパキスタンから独立を勝ち取ったという歴史的事実がある。だからこそ彼らは自分の国に強い誇りを持っている。
数日間滞在したナシムの家のお父さんは、17歳のころ、家族や親戚の反対を押し切り独立戦争の最前線で戦った。ナシムのお父さんは僕とごはんを食べるときはいつも戦争当時のことを話してくれた。お父さんは独立戦争で活躍した功績が認められ今でもバングラデシュの政府に優遇され家族や、親戚の生活までもが保証されているという。
バングラデシュから日本のことを思い返してみた。果たして日本人は自分の国にどれほど誇りを持っているだろうか。もちろん、人それぞれ意見の違いはあるだろうが、全体的に見て、日本人は周囲の国々の人に比べ、自分の国への誇りを持てていないように僕は思う。もちろん多くの日本人が日本での生活に幸せを感じ、その人なりに誇りを持って暮らしていることだろう。ただ、バングラデシュをはじめ僕がみてきた国々に比較すると日本人は自分の国に誇りを持てていないような気がするのだ。
僕自身がいい例だ。自分の母国日本に対して誇りを持てているかと言えばそうとは言えない。
タイでもネパール、バングラデシュをはじめこれまでに経験した国々では日本人に対してみんなとても親切にしてくれる。だから、僕は自分がそれらの国にいるとき、自分が日本人だということで快適に過ごせて便利だった。ネパール人やバングラデシュ人が外国に言って差別されているのとは対象的だ。でも、「便利」と「誇り」は意味が全く異なる。
自分の国に誇りを持てることは素晴らしいことだと思う。その意味でバングラデシュの人々の愛国心に僕は刺激を受け、自分自身を見つめなおすよい機会となった。では自分が
バングラデシュ人のように自分の国に誇りを持てないのはなぜか。しばらく考えてもうまく答えが見つからないが、もしかしたら日本での生活にあまり幸せを感じないことが原因なのかもしれないと考えた。ネパールで暮らす中で幸せについて考える場面が多くあったのであるが、ネパールにいてネパールの人々と生活を共にする中で幸せだという思いを持ったことがあっても、日本での生活を思い返し、「日本だから」幸せ!と言える思い出を見つけることがなかなか難しいのだ。短い期間ではあるがバングラデシュでの経験から得た感覚は、日本よりもネパールに近い。「幸せだなぁ」と思うことが何度もあった。写真を見返しても僕の表情はとても明るい。その理由を聞かれてもあまりうまく答えられないが、たぶん、僕はバングラデシュという新たな土地で、人と人とのつながりの大切さを再確認下のだと思う。
僕はバングラデシュに滞在してみて、さらにこれまでの生活経験も合わせて考えてみて、どのような環境で自分が元気がでるのかわかってきた。恐らく僕の場合、先進国-途上国とか、便利-不便の枠組みではなく、人間同士の絆の強さが幸福感に直結しているように思う。さらに僕自身の感覚では、アジアの開発途上国といわれる国々で、その絆の強さを感じてきた。この間隔は年と共に変わっていくことかもしれないが、今現在の気持ちとしては、不自由なことがあっても自分の気持ちを正直に表現しながら、人々と気軽に助け合える国で生きて行きたいという気持ちが強い。しかしそれが難しい国で生活する場合には、この数年で身に着けた自分なりの幸せの価値観を決して失わないように努力していかなければならない。
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