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青年海外協力隊員と共にOKバジが支援する村々を視察して考えたこと

青年海外協力隊員と共にOKバジが支援する村々を視察して考えたこと

 もう何度目になるだろうか。すっかり道も覚えてしまったパルパ県県庁所在地タンセン。居住地であるポカラからバスを乗り継ぎ六時間ほどかかるが、慣れれば長旅も苦痛にはならなくなった。
 定宿に到着し、OKバジと小さなレストランで食事をしながら、この旅がどういうものになるのか考えていた。
 以前、OKバジと一緒に一週間ほど村を回りたいとお願いしたところ、「都合上、JICAの方々と一緒でよければ」とのご返答がをいただいた。JICAの方々と一緒に行動出来る機会など滅多にないので、僕はもちろん喜んで承諾した。もともと僕はJICAにとても興味があったのでこの機会にいろいろ聞いてみたいこともあった。
 ところで、OKバジというのは、垣見和正さんのネパールでのニックネーム。垣見さんは約20年近くパルパ県を支援し続けていて、これまでに100以上の病院や学校を建設した。支援を始めたころは、ネパール語が分からず、いつも「OK、OK」と言っていたのでOKバジというニックネームになった(バジはネパール語でおじいさん。つまりOKじいさん)。
 僕は、父が仕事の関係で毎年ネパールを訪れていたことがきっかけで、OKバジと知り合うことになった。これまでにも何度も話したことはあったが、一緒にたくさんの村を回るというのは今回が初めてだ。それまでに、本を読んだりOKバジの支援している村を一人で回ったりして、その活動を少しだけ垣間見てきた。本を読んだだけでも分かるが、実際にその村々を見てみると、どれだけすごい活動をされてきたのかよく分かった。OKバジによると、18年前にネパールに来た当時のパルパ県の村は、まるで原始時代のようだったという。学校も、トイレも何もなかったらしい。そして今回の旅で、いくつかの村だけだが、その村々がOKバジの支援によってどのように変わったのかを具体的に観察することが出来た。
 僕はこの旅であるプロジェクトを開始した。そのプロジェクトとは、ネパール人の腕などをを使ってアルファベットの文字を作るというものだ。一文字を作るのに16人の写真が必要だ。実はアンナプルナベースキャンプに行った時にも挑戦したのだが、写真を組み合わせてみてもなかなかそのアルファベットに見えないなど、思っていた以上に大変でうまくいかなかった。
 このプロジェクトをタンセンに到着後に早速開始した。撮影自体は単純。ホテルの前に人が通ったら、声をかけて写真を腕を僕の指示した形に曲げてもらい撮影するだけ。しかし男性は皆喜んで撮影に応じてくれてくれたが女性は恥ずかしがってしまい、一枚の写真を撮るだけでも何分もかかってしまうこともあった。 
 また、このプロジェクトでは、性別年齢に関係なく、たくさんのネパール人が笑顔で写真の中に写っていることが大切だが、これについてもで大きな問題が。いつも笑顔のネパール人がカメラを向けた瞬間だけは、ものすごい真面目な顔になってしまうだ。そして撮影を終えて写真を見せてあげると大爆笑。その笑顔を撮りたいのに~と思いつつ、次の人の撮影に移る。そしてまたバカ真面目な顔を撮る。その繰り返しだ(このプロジェクトはその後も長い期間をかけて続け、最近ようやく完成した。)
 
 ホテルに戻り、午後8時ごろにJICAの方々が到着した。男女合わせて七名。カトマンズからの長旅で疲れているようだった。その日はすぐに寝て、次の日からの旅に備えた。
 翌日、JICAの皆さんは疲れもとれたようで、元気に村へ向かって出発した。最初に訪れたのは、僕が月に一度のペースでお邪魔するマイダン村。この村では学校で子供たちと交流をした。JICAの方々は、子ども達と遊ぶために大縄などをわざわざ作ってきていたのだが、村の子どもたちが、思っていたよりもずいぶん上手かったので皆さんビックリしていた。
 僕が一番うれしかったのは、村の子ども達が皆、僕の名前て覚えていてくれたこと。まだ村に到着する随分手前でも、「よしきが来た~!」と言って喜んでくれる。とは言っても、はじめて来たときのように歓迎セレモニーがあるわけでもなく、村の一員のように普通に接してくれる。村の人々に受け入れてもらっていることを感じて気分がよくなった。何よりも、純粋で笑顔の素敵な彼らが僕は大好きだ。
 このマイダン村も、少し前までは学校もなかった。数年前に、日本人の団体によって設立された学校のおかげで、村に暮らす八年生(中学二年)までの子供が学校に通うことが出来るようになった。また、今ではトイレもほとんどの家にあるという。さらに、以前は20分ほど山を下ったところにわざわざ水汲みに行かなければならったのだが、最近になって公衆水道が村の中に出来たおかげで、ずいぶんと簡単に水を手に入れることが出来るようになった。水汲みは女性と子供の仕事。これまで20キロの水を担いで、山を上り下りしていた彼らの生活が、公衆水道の設置によってかなり楽になったとうれしそうに話してくれた。
 マイダン村で遊んだ後、再び二時間ほど歩き、次のサチコール村に到着した。この村は僕にとって二度目の訪問だ。前回初めて訪問した経験から、この村がとても素晴らしい村だということを僕は知っている。
 この村の特徴は、子供の数がものすごく多いというと。村に着いて、以前お世話になった家でお茶を飲んでいると、すぐに村の子供たちがみんな集まってきて、僕らがお茶を飲んでいる姿をじ~~っと見つめる。多くの日本人はこの「熱すぎる」視線に困惑するとOKバジはおっしゃっていた。僕も最初は慣れなかったが、今では逆に彼らをじっと見返してやっている(笑)。
 サチコール村は、パルパ県の他の村に比べて世帯数が多く、家が密集している。また、は電線はないが、多くの家に太陽光発電機が取り付けられていることも特徴の一つだ。
 この村も日本人の団体の支援によって学校が建設された。学校の隣には小さな図書館も。中に入ってみると、大量の本が整理されずに本棚に押し込まれていた。よく見ると、日本語の絵本や、紙芝居も。これを見たOKバジが「OOOさん(図書館を作ってくれた日本人女性)悲しむだろうなー。」というと、村人は図書館の窓から僕らの姿を覗いていた数十人の子供の中から五人を連れてきて、本をすぐに整理させた。多くの村人が本を借りに来るが、返すときにきちんと整理しないで本棚にただ突っ込むのでこんなことになってしまった、と綺麗になった本棚を見ながら学校の先生が説明した。しかし、図書館の問題はこれだけではなかった。長い間窓を閉め切ったままだったため、ものすごい量のほこりが図書館を埋め尽くしていたのである。これについて、JICAのある方の「これでは本が腐ってしまう。」という一声により、今後は定期的に空気交換をし、掃除をするという決まりをつくった。
 その後も毎日異なる村に一泊ずつ滞在した。どこもすばらしい村ばかりだったが、その中でも特に印象的だった村がある。その村への道のりはとても過酷なものだった。ものすごく急な傾斜の下り道、さらに地面は小石とやさらさらな砂でとても滑りやすい。僕たちは足を滑らせて転ばないように一歩一歩慎重に、ゆっくりと歩を進める。そんな僕らの横を村の子供たちがものすごい速さで走りながら追い越していった。しかも彼らが履いているのはサンダル。さらに驚いたことに次々に僕たちを追い越していく子供たちの中に一人の日本人が混じっていた。そう、OKバジだ。僕ら若い日本人は足の筋肉が疲れてガクガクになっているというのに、70代のOKバジが子ども達と一緒に走って坂を下っているのだ。僕らは驚きのあまり声も出なかった。
 なんとか無事にその村に着くと、他の村々から50人以上もの人が集まってきていた。不思議に思い一人の人にになぜこんなに人が集まっているのか聞いてみると、OKバジがこの村に来ると聞きつけて、わざわざ長い時間歩いてやってきたのだと言う。この時改めて、パルパにおけるOKバジの存在の大きさを思い知った。
 僕らが疲れて一休みしているときに、OKバジは仕事を開始した。一人ずつ順番に、用件を聞いていく。病人のこと、子どもの教育のことなど内容は様々。それをOKバジは一つ一つ手帳に記入していく。僕とJICAの男性陣は近くの川に水浴びに行ったのだが、帰ってきてもまだOKバジは村人達の話を聞いていた。
 OKバジの仕事がようやく落ち着いたときは夜の七時ごろ。既に辺りは、真っ暗だ。一体、この50人以上の人々はどうやって自分の村に帰るのか。僕たちは夕飯を食べながら、外にいる村人たちのことを気にした。、夜の山道を歩いて帰るのはとても危険だからだ。食事の世話をしてくださった方にそのことをお聞きしてみた。すると、なんと全員をこの村に泊めると言う。しかし、このたった数軒の家しかない小さな村のどこに泊めるというのだろうか。
 彼らはまず、全員分の夕飯を準備した。50人分の夕飯となると、ものすごい量になる。それなのに、そこの村人達は文句一つ言わず料理していた。そして、それが終わると寝る場所をみんなで考えていた。家の中のいたるところに人を寝かせ、なんとか全員の寝るためのスペースを確保できた。
 全く知らない他人のために夕飯を作り、寝るところまで与える。こんなことは日本であり得ないだろう。東日本大震災のとき、首都圏では帰宅難民となった人たちがたくさんいたが、もし近くの家に気楽に泊めてもらうことができればあのような大騒ぎにならなかったであろう。でも日本はそれができない社会なのだ。一方ネパールではそれが当たり前のこと。そして、この人間関係の気軽さこそがネパールの素晴らしさだと僕は思う。ネパールにいると、日本で消えかけてしまっている人と人との絆の深さを心から感じることがたくさんある。特に村の人々の優しさには、いつも感激させられる。

 OKバジの大事な仕事の一つに、セレモニーに出席することがある。僕が一緒にいた一週間の中でも2回セレモニーに出席した。一つは、新しく出来た水汲み場の完成セレモニー、もう一つは、シャワールームの完成セレモニーだ。いずれもOKバジの支援で作られたものだ。どちらのセレモニーでも、OKバジがスピーチし、みんなで記念撮影をした。見ていておもしろかったのが、シャワールームのセレモニーだ。今までは水汲み場で体を洗っていたのだが、女性の希望によりシャワールームの建設が決まった。しかし、実際に作り始めてみると、男性もシャワールームが欲しくなってしまい、結局2つのシャワールームが出来たというわけだ。村人達にとってははじめて見るシャワールーム。皆興味深々だ。ドアが開けられると、我先にと中を見ようとする。
 セレモニーが終わり、一番最初にシャワーを浴びることになったのはJICAの女性たち。もう数日間シャワーを浴びていなかったので、みんなとてもシャワーを楽しみにしていた。しかし、ここで問題が。シャワールームにはライトがなく、代わりに明かりを入れるために窓が取り付けられていた。しかし窓と言っても、実際には壁に大きな穴をあけただけ。中を見ようとすればいくらでも見ることが出来る。シャワールームの前には100人近い村人が集まり、もし彼女たちがシャワーを浴び始めたら、間違いなく中を見てくるだろう。シャワーというものに興味があるのは分かるが、さすがにこれでは女性たちがシャワーを浴びることは無理だ。そこで、全員を家に帰らせてから、ようやくシャワーを浴びることが出来た。
 今回僕らが訪れた村々は、パルパ県のなかでも比較的貧しい村が多かったと思う。OKバジによるとほんの少し前まではトイレもなかったらしい。100年前の日本・・・誰かの言っていたその言葉通りだと思った。
 先進国の文明や科学技術がすごい速度で発展していくなか、多くの貧しい地域はその発展とは無関係に昔と変わらない生活を余儀なくされる。これが世界の現実だ。これはすぐに解決できる問題ではない。もちろん、ネパールのような後発発展途上国のために、たくさんの国の団体が支援の手を差し伸べている。しかし、それでも僕ら先進国の人間との生活レベルがあまりに違いすぎるように見えた。我々には想像も出来ないような過酷な生活を送っている人々がまだこの地球上にはたくさんいるのだ。
 しかし、一方で発展と便利さをひたすら追い求め続けた世界からは、人間が生きる上の大切なものが消え去ろうとしているのもまた事実だ。文明から取り残された貧しい世界では、便利さには欠けるが、先進国の失われつつあるもの、つまり 人間の心の美しさがきれいに残っている。そのことを僕はネパールの村に滞在するたびに強く感じる。果たしてこのどちらがいいのだろうか。おもしろいことに我々先進国の人間の中には、文明から取り残されたネパールのような国を好む人が少なくない。逆に後進国で暮らす人間は、先進国にあこがれる。人間は失われたものや、自分の世界にはないものを欲しがる、ということだろうか。まさにThe grass is greener on the other side.と言う諺がぴったり当てはまる。
 
  JICAの方々と過ごした日々は楽しくて一週間はあっという間であった。またこの1週間で僕は様々なことを学ばせていただいた。ネパールの村についてはもちろんであるが、それだけではなく人生の在り方についても深く考えさせられた。
  僕はこれまで、JICAの青年海外協力隊を目指そうと本気で思っていた。その理由は、海外でお金をもらいながら現地の人々と共に暮らせるからだ。しかし、JICAの皆さんと一緒に村を回利ながら時間を共にする内に、そんな安易な気持ちで青年海外協力隊員になるべきではないと考えるようになった。青年海外協力隊の多くの方は本気でその国のことを考え、自分の専門技術を活かして支援をしている。今回の旅で、皆さんの活動がどれだけ大変かということが分かった。様々な問題に直面し、自分のやりたい活動が上手くいかないことはよくあることだそう。それでも諦めないでやり続けて、やっと一つの活動が成功するのだという。そんな皆さんと過ごした1週間はとても充実したものだった。今でも時々、協力隊員の方と一緒に彼らの活動現場に連れて行ってもらったりしているが、いつもいろいろな意味で関心させられている。


 僕は今回の旅で改めて強く実感したことがある。それは、幸せ=お金ではないということ。このパルパ県というのは、ネパールの中でも貧しい地域だ。それでも人の心の中に幸せが溢れている。便利さに関して言えば「最悪」と言っても過言ではないのに、そんなことを忘れさせてくれるくらい人々は毎日笑顔で暮らしている。果たしてその笑顔はどこからやってくるのか。それを考えている内に、僕は自分の考えに大きな間違いがあることに気がついた。ネパール人は貧しい生活をしているのにとても幸せそうだ、という風に僕は今まで思ってきたが、実はそれが大きな誤りだったのだ。
 幸せというものは、なかなか手に入らないものだと思う人は多いが、実は考え方を少し変えれば経済的な豊かさとは関係なくとても簡単に手に入れることが出来る。具体的に言うと、彼らネパールの村人達は、常に他人と話しながら生活している。それ以外にやることがないというのも事実だが、僕はそれこそが幸せそうな秘訣だと思う。いつも彼らは冗談を言いあいながら笑っている。人間だれでも笑っている時は幸せだ。ネパールに来てもらえばわかるがネパール人は笑顔を絶やすことがない。
 僕の今現在の考えは、幸せ=笑顔。つまり、幸せというのはお金のなさや、不便さとは全く関係ないということ。逆に、日本のように便利すぎる環境にいると、自分の手の届く範囲で何でも手に入り、その結果人との直接的な関わりが少なくなり、その結果幸せを見つけにくくなるのではないかと僕は思っている。笑顔は不思議な力を持っている。笑顔で人と関わると周りの人間をも笑顔にしてしまうのだ。その力を上手く使えば、いくらお金がなくたって最高に幸せな人生を送ることが可能なのかもしれない。
 僕にとって、僕自身の幸せの定義をみいだせたことが、この旅一番の収穫だ。しかし、彼らネパール人から学ばなければならないことは、まだたくさんあるはず。僕はこれからもそれを探し続けていく。
            
                                                                                                              関 愛生






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