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読売新聞社賞 受賞作品

今日、読売新聞に僕の名前が出た。
夏休みの作文コンクールのことでだ。
せっかくなので、僕の作文をブログに載せることにした。

世界と向き合って生きていく

泰日協会学校(中学部)
34組 関愛生

ネパールの首都、カトマンズの街並みが飛行機の窓の外に見えてきた。山に囲まれた小さな都市。高層ビルは1つもなく、小さな家がぎっしりと立ち並ぶ。僕は本当にネパールに戻って来てしまった。これからここに3週間滞在する。今さらながら自分自身に対する驚きや不安ばかりが僕の心を覆っていた。
4年前、家族と共にネパールに訪れた。父は大学生の研修を引率してネパールを訪れたことが何度もあり、「素晴らしい国だ」と言って勝手に旅行を計画した。当時僕は小学6年生。ネパールがどんな国かも知らず、父に言われるままに小学校の卒業式直後に旅立った。この旅行では10日間ほど滞在したのだが、ただただ苦しい思い出しか残っていない。まず、数日目でひどい食中毒にかかってしまった。最初に症状が出た夜、僕は安いゲストハウスに宿泊していた。急いでトイレに行こうとしたが電気がつかない。その当時ネパールでは一日十二時間は停電していたのだ。初めて宿泊するよく分からない部屋で、電気がなくてトイレの場所がわからないとどうなるか、これ以上は書きたくない。結局翌日から入院し、人生初めて点滴の針と共に何日もベッドの上で過ごした。その後山岳地帯も訪れたが、そこへ行く道のりは険しく、途中の車中で何度も嘔吐した。トイレは汚く、ごはんを手で食べることにも違和感があり、牛など動物だらけで臭くて、蜂も恐ろしいほどにたくさんいた。カトマンズでは人が火葬される場所を見学したが、大変失礼なのだが恐怖感しかなく一刻も早くその場所を離れたかった。父が僕に多様な文化を学ばせたいという気持ちがあったことは今では理解できる。しかし、当時の僕にはその気持ちを理解する心のゆとりはなく、正直に言ってネパールが嫌いになり、こんな国には二度と来ないと心に固く決めたのを覚えている。
帰国後僕は東京の中学校に入学した。そして今年の4月からは父の仕事の都合でタイのバンコクに住み、現地の日本人学校に通っている。学校はとても楽しい。よい友達がたくさんいて、先生方も僕のためにとても熱心に教えてくれる。僕は勉強は得意な方ではないが学校で多くのことを学んでいると思う。しかし一方で、僕は心の中で何となく違和感を感じていた。
その一つは自分自身の違和感である。僕は国際結婚の家庭で生まれた。父は日本人であるが、母はドイツ人である。その関係で家庭内でドイツの話題が多くドイツにも何度も行ったことがある。ドイツの生活スタイルや考え方は、日本人のものとは異なる部分が少なくない。例えばドイツでは休暇を大切にする。夏休みなど長期休暇は家族で長い旅行をするのが当たり前である。一方日本ではそうではない。会話の方法も違う。ドイツ人ははっきり言うが日本人は心で伝えようとする。中学生の生活も異なる部分が少なくない。僕の心の中には、自然と両方の生き方が身についていることが次第にわかってきた。しかし僕は母語であるはずのドイツ語がうまく話せないせいもあり、両方の考え方を持ちつつもその一方の考え方に偏った生活をせざるを得なかったために、心のバランスが悪くなってしまっていたと思う。
もう1つの違和感はタイに来てから感じたものである。僕はタイに来ることが楽しみだった。それは、タイはわからないことの多い国だったからである。僕自身の経験から、国によって考え方や行動の仕方が異なることがわかる。だからきっとタイにも独自のものがあるはずで、実際に生活することでその違いを体験できる絶好のチャンスだと思った。しかし、こちらでの生活は自分の予想とはあまりにもかけ離れていた。学校内にはタイの文化はほとんど感じられず、東京で通っていた学校よりも日本的だった。また、中学3年で入って来たこともあり全体的に帰国、高校受験の雰囲気が漂っていて、タイの文化を学ぶのには難しい環境だった。生活するエリアも日本人が多くタイ語を使わなくても困らない世界だった。これではいけないと思いタイ語学習をはじめたが、通学の関係で起床、消灯時間が早いために、学校の宿題と両立させることが難しくなってしまった。
僕の心のわだかまりを察した父は、僕にとんでもない提案をした。「夏休み、1人でネパールに行ってきたらどう?」僕は、一瞬父の言葉を疑い、「何を考えているの?この人は」と思った。中学3年の夏休み。周囲は受験のために必死で勉強している。そんなときに中学生の子どもが1人でネパール旅行。日本の常識では「あり得ない」話しだと思う。しかし、なぜか僕は一瞬の間を置いた後で「行く!」と答えてしまった。あまりに早い反応に母はあ然としていた。ネパールから帰国後も、父がネパールで行っている活動を聞いて興味があったことは確かであるが、あれほど嫌いだったネパールに自ら行く気持ちなったのはなぜだろうか。おそらく僕は心の中にある、よくよわからないもやもやした気持ちに苦しんでいたのだと思う。
ネパールでは、カトマンズからさらに飛行機で移動したヒマラヤ山脈のふもとの町で、父の知人のご家庭にお世話になることになった。生活を始めてみると、予想通り不便なことばかりだった。毎日停電になるし、不衛生なトイレが多い。当然のことながら水道水を口にすることはできないし、洗濯は手洗いだ。「それでもこの地域には電気や水道があるだけ幸運だ」とご家族は皆おっしゃっていた。ネパールには電気、水道が通っていない地域もまだたくさんあるのだそうである。4年前と全く変わらない不便さや不衛生な環境に遭遇し、孤独感も重なり、最初の2日間は不安ばかりであった。4年前のいやな思い出ばかりが頭をよぎった。
しかし、僕の当初の不安は日を追うごとに消えていった。そればかりか、自分の心が日に日に活き活きと元気になっていくのがわかった。別に特別なことをしていたわけではない。朝起きたら、毎日山の中の学校に通い、そこで同じ年齢の人達のクラスで現地のネパール人と一緒に勉強しただけである。日本語を教えるなど、特別な活動はさせていただいたが、基本的には普通に学校に行き、帰宅後はご家族の皆さんやその周りの方々と一緒に生活しただけである。その場所にはレジャー施設など何もなくあるのは家と自然だけ。これといってやることはない。それなのに、僕の心は、次第に晴れてきた。
正直、僕は自分の心の変化に戸惑った。あれだけ嫌がっていた場所に身をおいているのに、なぜこんなに心が軽いのか。なぜ、次に起こることを楽しみにし、歩いているだけで楽しいのか。汚いトイレに入ることも苦にせず、ネパールの食べ物をネパール人と同じようにがつがつ食べる自分は一体何なのか。自分の中の不思議な変化に混乱した僕は、ご家族が皆寝静まった後で、また暇な時間に自分の思いを書き記すことで必死に心の整理を始めた。
日記を読み返してみると、一番多く記されていたことは人との関わりやすさについてである。例えば、バスに乗っているだけで色んな人が話しかけてくれ、すぐに友達になり驚いた。公園でサッカーをしていると、知らぬ間にたくさんの人が加わりみんな仲間になった。僕が日本にいたときはどうか。僕は人見知りの性格で出会って間もない人に話しかけることが苦手だった。また、人と付き合うときに何か気を使いすぎて疲れることが少なくなかった。「来てくれる人は誰でもWelcome。これがネパール人のいいところだ。」とホストブラザーはいつも言っていた。おそらく、僕がネパールで安心して人々と楽しく交流できたのは、このネパール人の性格のおかげではないかと考えた。
次に多く書かれていたことは、自然についてのことだ。ある日サイクリングに出かけたら、高い建物もなく自然が破壊されていないので、街中なのにも関わらず一面緑でいっぱいだった。一番感動したのは、夜になると町のなかでも蛍がたくさん見えたことだ。僕は生まれた時からずっと、新潟県の自然豊かな環境で生活してきた。しかし、小学校5年生のときに故郷の地を離れ東京に引っ越して以来、自然に触れる機会が一気に少なくなってしまった。今、僕はバンコクの高層ビル街のマンションに住んでいる。その周辺にある緑と言えば、人工的に作られた小さな公園くらいだ。僕はネパールで滞在した町に、新潟にいた頃の自然豊かな生活を重ね合わせ、心が落ち着いたのかもしれないと考えた。
自分とネパールの関係について考える中で僕は、ネパールを訪れる他の人々の気持ちも知りたくなった。ネパールでの人々との交流を通して、父がネパールが大好きなことは何となく理解はできたような気がする。おそらく父は僕と似た理由でネパールに惹かれたのだろう。では、他の人々は何に魅力を感じて、わざわざお金を払ってこのような不便な国を訪れるのだろうか。ネパールはヒマラヤの国とも言われ、観光業に力を入れているが、果たして、人々はヒマラヤを経験するためだけにこの地に来るのか。それとも僕のように何かもっと心に関係したことを目的としてやって来るのか。
そこで、毎日学校が終わった後の空き時間に、旅行者に聞いてみることにした。僕は父の知り合いの経営するレストランに待機し、そこを訪れる旅行者にインタビューを試みることにした。すると、15才の中学生が3週間もネパールに家族もなく滞在していることに興味を持ってくださったのか、大変多くの方々とお知り合いになり、ご意見をお聞きすることができた。そして不思議なことに、どの方も僕と大体同じ意見を持っていたのだ。
一人の40代のアメリカ人の男性は長い間勤務した会社をやめ、自分自身を見つめ直すために世界中を旅している途中であった。アメリカの会社で働いているときには毎日猛烈に忙しくてプレッシャーばかりで人間関係に疲れてしまったのだそうである。この方はネパールが一番快適な国だと言っていた。その理由は、この国の自由な雰囲気と人々の優しさにあるという。どこに行っても外国人の自分を歓迎してくれ、困った顔をしていると皆が助けてくれ、子どもたちも笑顔で自分に近づいて来てくれて、道を歩いているだけで楽しくなるそうだ。また、富士山よりも標高の高い土地に暮らす日本人の家族にも話しを伺った。3才のお子さんがいるご夫婦だ。このご夫婦は、今の日本はどこかが間違っていると何度も繰り返した。何が間違っているのかとさらにお聞きしたら、たくさんのことを答えてくださったが、中でも特に印象に残ったのは、eメールについてのご意見だ。日本では、便利だからという理由でeメールなどに頼りすぎ、直接会って会話することが少なくなった。その結果、便利さを超えて人との本当のふれ合いが少ない社会になってしまったとおっしゃっていた。それをお聞きして、自分も同じだと思いぐさりと胸に突き刺さった。このご家族は今、小さな村で地元の人達と共に農作業をしながら生活をしている。そこは日本とは何もかも違い不便なことも多いが、日本のように人とのコミュニケーションの間にも機械が入り込み、さらに時間に追われるばかりの国よりもずっといいとおっしゃっていた。
17年間にわたりネパールの山奥の地域を支援し、元ネパール国王に表彰され、日本のテレビでも取り上げられた70代の日本人の方にもお話しを伺うことができた。その方は、20年近くの支援活動を通じて、100校以上の学校を建設したり、水道設備の整備や医療支援をされてきたそうだ。本当に優しい方で、お忙しいのに、僕に村の現状について詳しくわかりやすく教えてくださった。この方はネパールでも最も貧しい地域に住み、山中の村を歩いて回り支援しているのだが、「どの村でも村人たちはいつも笑顔でやさしくて親切にしてくれる。まるで僕が支援されているみたいな気持ちになる。本当に素敵なところだ。」と、おっしゃっていた。
他にも様々な国から来た旅行者に取材をさせていただいたが、皆一様に、見知らぬ自分を大歓迎してくれるネパール人の魅力を熱く語ってくださり、大自然に囲まれて笑顔を絶やさずに暮らす人々がうらやましいとおっしゃっていた。この取材を通じて、僕がここに来て考えたことは、僕自身だけでなく、ネパールに旅行に来る多くの人々が感じていることを理解できた。
ネパールが後発発展途上国であり、政治的な混乱による長期間の内戦の影響で今も貧困など、多くの問題を抱えていることは父からよく聞いて知っている。ネパールの人々もきっと多くの悩みを持って生きているのであろう。しかし、それにも関わらず幸せを感じながら暮らしている。その一方でお金持ちである国の人々が不幸を感じ、幸せを探しにわざわざネパールまでやってくる。それが事実なのだとすれば、僕の母国である日本やドイツを含め先進国と言われる国々にも、人の心を痛めてしまう大きな問題があるのかもしれないと感じた。その原因が何か考えることは僕のこれからの課題である。
僕は明日ネパールを発つ。この旅ではたくさんの人と出会い、そして自分の幸せについて考えることができた。これからこの国とどのように関わっていくかは分からない。しかし、ここでの経験や出会った人々のことを忘れることは決してないだろう。自分の将来をこれからどうしていきたいのか、まだ自分でも分からないことが多いが、今回の旅を通して、強く心に決めたことがある。それは、「人のことは気にしすぎずに、自分が幸せかどうかを基準にして生きていく。」ということだ。さらに、僕がこの旅で学んだ大切なこと、つまり、自然の豊かさや人との絆が幸せには欠かせないということを、できるだけたくさんの人に伝えていきたいと思う。それが、僕に大切なことを教えてくださった多くの方々への恩返しになると思う。
「新しい人と出会うたびに新しいことを学べる。世界は広い。」と一人の方がおっしゃっていた。この広い世界の中にはたくさんの人がいて生き方も人それぞれだ。これからも世界中のたくさんの人々と出会い、たくさん話をしたい。一度っきりの人生をどのように過ごすのか。僕は世界と向き合ってこれからも生きていきたいと思う。



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